大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

自分の時間を大切に

今日は意味は無いけど、スタバでパソコンを開いている。家に人がいるとやっぱり居場所がない。自分の時間が取れずにいる。誰が悪いということではないのだけど、夫以外の人が家にいるとやはり私は遠慮してしまって、部屋から出ることができない。

睡眠時間が自然と増える。人がいる中で、私はどう動いていればいいのか?それがわからず困惑している。この行動は義両親に不快感を与えないか?を自問自答する。私の心の声が囁く。

「なんて嫁だ」「だらしがない」「そろそろ母親が怒鳴りだす」
「裏で何言われているかわかったもんじゃない」

そんな私に対する私自身の陰口に「そんなふうに思うんだったら動けばいいのに」と言い返す私がいるけれども

「じゃあ、どうやって動くのさ?」「この場合の正解は何?」
「私の作ったまずい飯を食わせるのか?」「それで微妙なリアクションをされたら?」
「今後もずっとやらなくいけなくなったら?」
やりたくもない自炊、やりたくもない火事。だけどじっとしているのは嫁としてどうなのか?考えた結果、私は真っ暗な部屋で布団にくるまり、ゲームをただただやる。
朝が来てほしい、と思い、惰眠を貪る。

で、朝が来たらきたで、起き出す家族の音を聞きながら
「起きたくない」「朝ごはんを食べたくない」
「こんな時間まで寝てるなんて軽蔑される」「起きないといけない」
「起きたくない」
「今日この時間に起きたら明日もこの時間に起きなくてはならないのか?」
「私が朝起きてこないのに、毎日でかけることに、不信感を覚えられているのでは?」「家事もしない、ろくな収入もない穀潰し思われている」
と葛藤しながら、人の気配がなくなるまで布団の中から出られない。

全て私の脳内の声であり、義両親は何も言ってこない。もしフラストレーションがたまっているのなら、ブチ切れられる前に言ってほしいところではある。いや、自ら、私はこのままでいいのか?をやはり確認すべきではないのだろうか?

 

まあ、この精神状態だと、耐えられるのか?と言う感じではあるけれども。新しい家ができたら、私の朝ごはんの準備はしないようにしてもらおう。あるものを適当に食べていいかどうかを確認させてもらおう。
神経質な私。干渉しない、優しい、自主性を重んじてくれる夫だからこそ、私はこの人と生きていけるんだろうなと思う。

改めて夫に感謝。癖の強い、メンタルの弱い私と一緒に生きてくれてありがとう。

萌え絵や女の身体を否定するフェミ界隈への違和感

私は性自認はおそらく男性に極めて近い人間だと思う。

だが、そんな私でも30年以上女の体で生きてきて、女であることを多少受け入れていたりもしている。もちろん、納得行かないいろんなことがあって自分を傷つけたり、これは誰もが通る道だと思っていることがそうじゃなかったりと、色々感じることもある。

そんな私でも、最近の萌えキャラの性的だという指摘はどうも女体持ちとしては違和感を禁じ得ない。

 身体のラインが出過ぎている、とか、性的だ、とかいう指摘萌えキャラがなんかすごいバッシングを受けている。

自分自身でも萌えキャラはいらっとする、ということを書いた。

 

mangobus.hatenablog.com

 だが、違和感をやっぱり拭えないのは、「いやそれ仮に性的だとしても、それが子どもや公共の場にあることがなんで悪いの?」と思ってしまうことだ。

もちろん、私自身がオタクであり、萌え絵に慣れまくっていることもある。下記のブログを見て納得させられたところはある。

 

なぜあの絵が性的に見える人/見えない人がいるのか - nomolkのブログ

なるほど〜。私がこのキャラにエロさを感じず、ツッコミ待ちのボケキャラと感じるのは、オタク経験値の差なんだな…

2016/10/21 15:40

 だが…萌え絵の否定がどうにも

「女の身体なんて公共の場に出すな」

「女の体はみっともない」

と言われているような気がしてならないのだ。

 

という思いを悶々といだきながら、なんだろう、言語化出来ない…と思っていた矢先に、この記事を読んで、あーこういうことを私は感じていたんだなーと。

togetter.com

 

肉感的なものは不快だと思う。セックスが気持ち悪いのって、結局臓器と臓器をくっつけて体液を混ざる行為だからでしょ。料理作ってる調理過程で、肉とか魚とかさばいて気持ち悪いのと同じように、やっぱ肉を感じさせるものはちょっとグロテスクだと思う。

だけど、肉を忌避していくとなんか、人間そのものを排除していくような感覚にもなる気がするんだよな〜

人の考えは言葉なのか?映像なのか?

少し前のことになるが、性暴力被害の心象を映像化し、その壮絶さを訴えた映画「月光」を見てきた。


映画『月光』予告編

 

 

映画畑で育ってきた会社の後輩と2人で見てきた結果、開口一番反応に食い違いが生じた。

私「いやーリアルだったね!」

後輩「え、逆じゃないですか?リアリティない…」

真逆!

びっくりした。その後彼女と感想共有の結果、私達が導き出した感想は

「説明不足」

となった。

彼女がリアリティを感じないと思った点は4つ。

  1. 登場する女性たちの服がなんか皆妙に露出度が高くないか?とか(私達は露出度が極めて低いため、そもそも共感ができなかった)
  2. 主人公のバックグラウンド(どんな人生を歩み、どんなことを考える人なのか)がいまいちよくわからないまま終わった
  3. なぜ被害を受けた後そういう行動を起こすのか?が分からない
  4. (3つ目と通じることだが)現実と、心象の映像の境目が分からず、困惑した

という点がいまいちわからなかったそうだ。

一方、
私がリアルだ!と感じた点は、1つ。

  • 嵐のような心の傷の深さ

現実と虚構の区別がつかず、いつを生きているのか?さえわからなくなり、主人公の人生がボロボロになっていく様が実に丁寧に描かれている。

後輩と私、相違点はどこにあるのか?それは、性暴力に対する事前の知識だと感じた。
私はこの映画を見る前から、色々と性暴力被害者や、トラウマについての考察を色々と読んでいた。正直、映画を見ていて「このシーンは、あの本に書いてあったこれか」「なるほど、あの状況を映像化するとこういう反応になるのか」と感心しながら見ていた。自分の中にある知識と答え合わせをしながら見ている気分であった。だからこそ、私も後輩と同様に感じていたリアリティのなさが気にならなかったのだ。映像で全てを伝えることはもちろん、容易ではない。感情のすさみようを表現できたこの映画は、その前後の知識を度返しに心の中の嵐を表現に徹したのかも知れない。その意味でこの映画の出来は間違いなくよかったといえるだろう。

だが、啓蒙や性暴力被害のダメージの深さを伝えるのであれば、そこにはやはりなぜそういう現象が起こるのか?という前提が必要だったのではないだろうか?自分がもし監督ならどう表現するか?それを考えた時私は、主人公の心の声が圧倒的に足りないことが問題なんじゃないかと思う。

映画は主人公たちはほとんどしゃべることはなかった。独り言をいうでもなく、心の声をのせることもなかった。だが、私自身に当てはめてみて思うのは、私が被害者だったら、心の中で大音量の言葉が、飛び交い、大混乱を起こしているような気がするのだ。

 

「あんなところに行くから」「なぜ私はあんな行為を?」「あそこで、あいつに出会わなければ…」過去に戻り、何度も何度も、どこが悪かった、あそこが悪かった、あの起点に戻れば、大丈夫だった、あいつの何が悪いか?私の何が悪いか?これは苦しいのか?本当は辛くないんじゃないか?とか、もう誰が何を喋っているのか?わけがわからなくなるくらい、頭の中でたくさんのスピーカーが大音量で言葉を投げあっているような状態になる。そこに記憶の映像が滝のように溢れ出し、私の心をぐちゃぐちゃに刷るんではないか?と思うのだ。目を閉じても、耳をふさいでも、うちなる音や映像は失われることなく、自分に襲いかかる。

映像は美しく、音楽も美しかった。だが、言葉圧倒的になかった。しかし、それは私が言葉の人だからかもしれない。
少し話は変わるが、専門紙の編集長と何か話をしているときに「あなたは言葉の人だ」と言われたことがある。どういう文脈だったわからないが、言葉以外、きっと映像や情緒が先行してしまう人がいるようだ。もしかしたら、監督はそういう人なのかもしれない。

混乱すれば混乱するほど、私は頭の中に言葉があふれかえる。エヴァのシンジ君みたいなことが起こる。アタマの中で「私はダメだ」という言葉が繰り返され、気がつくとあるきながら「だから私はダメなんだ」とつい口ずさんだんでしまったり。言葉だけじゃない、言葉にならない怒号も。眼差しも「お前が悪い」と責め立ててくる。

美しい作品だった。だけど、もう少し、何が起こっているのか?の説明があってもよかったのかな、なんて思う。

それと、やっぱりそもそもの前提ももっと必要だった気がする。いきなり哀愁の美女、から始められてもなぁと。庵野監督が表現するような破壊される前の「平穏な日常」ももっと丁寧に描かなくては、いけなかったのではないだろうか。

…まあ、テレビ屋の考え方なのかもしれんが。

日本社会も実はだいぶ限界

世界中で宗教がらみのテロが起きまくっている。

日本国内ではあまり巻き込まられることなく、蚊帳の外だという感じがしないこともないが、日本でもなんやかんやテロが起きている。

新幹線の中に火をつけたり、深夜家に押し入って人を殺したり、罪を償いたいと他人を巻き込んだ自爆をしたり。

政治信条を掲げるのではなく、その原因はわからない。皆個人の問題なのだ。

そんなよくわからない理由でテロが起こるこの国はやはり、なにか根本的な問題を個人の努力のせいにして、社会が果たすべき責任を個人になすりつけているのではないだろうか?

失業率は下がっているそうだが、失業率は就労意欲がある者から測られる。ホームレスは街から排除され、綺麗な街が整備されているが、ひきこもりの数は減る様子もなく、労働市場から途中退場からひきこもりになる人は増える一方だ。

精神疾患生活保護受給者の数は?

社会は問題を見えなくすることばかり進めていて、何か大事な問題にメスを入れられているのだろうか?

自衛官、73歳、自殺、自爆、自分を責めたような遺書、お決まりのようにまじめだったという上司の証言…

何か、とても異様だ。

 

個人の努力、資質の問題ということで、社会は何も問題を抱えていない顔をしているだけなような気がする。

 

ただの今朝の報道の感想です。

地震の影響なのかなんなのか?

最近、ここ一週間謎の体調不良に襲われていた。

先週の土曜日にマラソン大会に出ていたのだが、なぜか13キロくらいで走るやる気が出ずリタイアした。日常的に15キロ前後は走っていたのにそれに及ばない距離で心が折れたのはなかなかショックだった。

帰ってきて、横になり、夜まで寝た。そしてご飯を食べてまた寝た。

よく分からない倦怠感と眠気と頭痛と腹痛。生理3日目だったために、走ったのがよく無かったのかな、なんで思った。だが、私は2日目に生理痛が来ると翌日からはけろっとしていることが多かったから、不思議で仕方がなかった。

日曜日、具合が良くならない。

月曜日、それどころかなんか日に日に悪くなってるかも…?な状態が続いていた。

たしか、水曜日だったと思う。映画館で味の濃いポップコーンを食べ過ぎていたのであろう。私は夜に強烈な吐き気で眠れずにいた。横になるとしんどかったので、トイレにこもっていると、地震がきた。

まさか、大きい地震がくるのか?そんな予感がした。確信があるわけではないが、地震が来る前体調不良になるイメージがあるからだ。ただ、そうかも、と思うのは地震がきた後。なんとなく元気になったような気がする、くらいなものであんまり確信は持てない。

いや、まさか、そんなわけあるか。しかもその時起こった地震は震度2くらいのちょっとした揺れだったし。

 

木曜日、一昨日はさすがにこのよく分からない体調不良はなんかガンとかの予兆なんじゃないのか?と不安になったりもしていた。さらに頭痛か腹痛のせいか頭が朦朧として集中力の低下もなかなかのものだった。 SNSセクハラのせいで、メンヘラになったのか?なんで思っていたが。

 

金曜日も低空飛行スタートだった。腹痛が相変わらず、抑うつ気味でもあった。それでも、夕方には久々にランニングをしたかった。抑うつ状態をなんとかしたかったのもあるが、日曜日の体調不良の検証をしたかったのもあるからだ。

走ってみた感覚は決して悪くなかった。10キロしか走れなかったが、走りたくないと言う衝動は抑えられる程度。むしろ体幹を使って走ることをイメージができとても心地よかった。走りながら全身ストレッチをしているような爽快感があった。

 

走り終わった心地よい疲労感に包まれながら、不思議と体に覆いかぶさっていた体調不良を忘れていた。日曜日にトレイルランに誘われていたが、体調不良がひどくて断っていたが、全然いけそうだな、なんであの時断ったんだろう、なんて思っていた。

そこではたと気がつく。そういえば鳥取で震度6の地震があったじゃないかと。

翌日(今日)体調は不思議と悪くない。むしろ元気だ。体を覆っていた不快感はどこへ?

場所は鳥取と遠く、本当に影響があるかなんてのはよく分からない。生理痛の延長かもしれないし、いつものメンタルの不調の可能性は十分にある。が、地震のせいであれば、フルマラソンを13キロでリタイアした理由にはなんかもう仕方ないかな、と思えるからありがたいところだ。

地震により被害に遭われた方には申し訳ない話な気はする。しかも予知も出来てないし。そもそも遠いのに。

何はともあれ、謎の体調不良から解放されてよかった。

 

こういうのあるらしいね。

こんなことがあったら気を付けろ!大地震の前に起こる宏観異常現象とは? - NAVER まとめ

そういえば、木曜日か金曜日あたりテレビの電波が途切れたけど、東京でも関係あんのかな?…いや、やっぱさすがに遠くね?

 

宮﨑駿と新海誠は違う方向性だとわかってよかった

君の名は。を見てきた。

なんとなく、見なくては行けない気はしていた。話題作だし、宮﨑駿好きとしては、これはやはり見なくてはいけないのではないか?と。

見たいと言ってくれる人がいたので、見てきたのだが、友人との感想は

「良かった」

だけである。

毎回、その友人とは映画をみたあと、だいぶ長いあいだ、メッセンジャーで、あの映画のあのシーンはこうだった、ああだった、と盛り上がるのだが、今回はほぼそれがなかった。

良かったし、また見たいなとも思うし、人にも勧めようと思うのだが…シンゴジラや、宮﨑駿アニメのような中毒性が全然ない。

なぜか?全然わからなかった。キャラクターに共感ができないからか?と思ったが、考えてみたら、シンゴジラも、宮﨑駿作品も共感できるキャラがどこにいただろうか?共感じゃない、何かが違う…。

たぶん、ひとことで言ってしまえば私と友人は恋愛映画に興味がない、ということだとは思う。

だが、センとハク、アシタカとサン、キキとトンボ、ポルコとジーナとフィオ、カーチス、恋愛要素があるじゃないか、紅の豚では「ポルコ、ジーナとくっつかねえのかよ!おめえジーナの気持ちちゃんと考えてやれや!」と、めちゃくちゃ焦らされたではないか。

何が違うのか?なぜポルコとジーナの恋にはキュンキュン(?)できるのに君の名は。ではそこら辺ひっかからないのか?不思議である。やはりあれか。

戦闘シーンがないからなのか?

ただただ、私の心の中に湧き上がったのは、そんな切なさとかどうでもいいから、恋よりも、無人在来線爆弾を!そんな気分だった。

男女のすれ違いに興味が無いはずないのに、なぜか全然胸が締め付けられない。

宮﨑駿の後に名を刻むアニメーターなのかなーと思ったりもしたのだが、たぶん違うと思う。もちろん名は刻む気はする。映像美へのこだわりは、もちろん素晴らしい。だが、駿の後ろは庵野だ。庵野の並びに新海誠がいるとは思えない。アクションがラブストーリーの添え物になる新海作品と、ラブストーリーがアクションの添え物になる駿、庵野作品。たぶん、それが違いだ。

とりあえず、なんとなく、それがわかってよかった。

 

 

 

ゆるキャラ萌えキャラブームはたぶん行き過ぎている

最近、駅乃みちかというメトロのゆるキャラが萌えキャラに変わり、それのスカートが性的だと何か物議を醸しているらしい。

www.j-cast.com

 

そもそもあのキャラクターがゆるい時点から気持ちが悪いなと思っていたので、なんとも思わないが、スカートのシワを消したくらいで、駅乃みちかのなんともいえない昭和のいい女的な、権力にすりよるようなウザイ感じは取れないんだからどうでもいいと思うのだが、私もなんやかんや萌えキャラには辟易としているので一言申し上げたい。

子供の頃、私は多分、現代のような萌えキャラを色んな所で見られる社会を望んでいたようなきがする。

周りから後ろ指さされず、薄い本を、本屋さんでこそこそ物色するのではなく、どうどうと、社会に認められるような。今はまさに、私が子供の頃望んでいた社会が実現しているように思う。

山手線の電車がラブライブのラッピング広告に包まれたり、新宿の地下道にアニメの広告がどーんと出たり、セーラームーンやらジョジョやらが絵画展をやったり…。

アニメ文化が社会に受け止められている。だがなんだろう、この逆にむしろイライラする気分は。セーラームーンの足のアンバランスの長さやラブライブのキャラの巨大すぎる頭やでかすぎる目になぜかすごくイライラする。胸も足も、尻もなんつーか極端すぎて気持ちが悪い。なぜそう思うのか?たぶん一重に加齢はあるだろう?だが、それ以上に「もてはやされすぎている」ことが一番の問題ではないだろうか?

 

身体のバランスがおかしい美少女をお目にするのは、何も東京だけではない。鈍行で10時間(いや、新幹線に乗っても最低10時間はかかるんだった!)かけてたどり着いた秘境、和歌山では、熊野三山の巫女の萌え絵に迎えられた。

j-town.net

心の中で「巫女みこナースかよ」と突っ込まざる得ないくらいチープな巫女設定だった。(巫女みこナースは、ぜひこの主題歌を聞いてほしい、いや聞かなくてもいいけど)

巫女みこナース 主題歌 巫女みこナース・愛のテーマ (Full ver.) by azrael9696 R-18/動画 - ニコニコ動画

いやいや、オレ、霊験あらたかな熊野の山々を感じたくてだな、こんな90年台(巫女みこナースは2000年台の作品だった!)のエロゲみたいなの感じるためにきたわけじゃねえんだけど。という気持ちに。さわやかな疲労感はじっとりと思い徒労感に変わった気分だった。

 

なぜだろう?子供の頃だったらそんなにいやじゃなかったかもしれない、だけど、いきなり頭がオタクモードじゃないときに、突然エロい萌えキャラをぶち込まれるとなんか疲れるのかもしれない。

ラブライブのようなギャルゲーのラッピング広告が都内にはびこるのは仕方がないと思う。だが、地方行政はもう少しオリジナリティと、その地域性に本当に萌えがマッチするのかちゃんと考えたほうがいい。日本の美少女文化は世界に誇るもので間違いはないと思うが、それは世界で春画が評価されていることと同じだろう。日本はエロコンテンツが豊富という情報発信でもあるだろう。春画を見たヨーロッパのご婦人は、日本の男性器の大きさに驚嘆した、なんて逸話もある。同じようなニュアンスで日本の女はみんなおっぱい大きくてエロいと誤解されている可能性もある。もちろん、夜這い文化を持ち、性に開放的なのも日本文化の一つと考えれば、萌え絵で、この地域はエロいエリアという印象づけてもそう齟齬はないのかもしれないが、それをその地域の代表として発信するのはいかがか?

(主に)男オタクたちの聖地・秋葉原修験道の聖地・熊野ではターゲット層も、メッセージも必ず違うはずだ。

 

萌え絵を女性の体が性的に表現されていて不快だというフェミニストたちの発言はなんか、女性の体を持つ私としてもあんまりいい気分がするものでもなく、また、一オタクとしても、なんでそんな個人の感情論で避難されにゃならんのや、という気持ちにはなる。だが、考えてみれば、志摩のメグも熊野の巫女も、エロゲキャラで出てきても「おっしゃ、脱がしてやる!」とエロゲ魂を刺激されるだけの設定を備えていることを考えると、やっぱり、性的な要素が強すぎるのだろう。

(その意味では、道乃みちかは、ときメモとかに出てくる隠しキャラ(コアラ女とか)くらいの立ち位置(落としてやろうという闘志がいまいち湧かない)な気がするので、そもそもあんまり性的なキャラとは思えない。あくまで一世代前のギャルゲ好きのオタク的には、だが)

 

全然どうでもいいんだけど、なんで全部擬人化は女の子なんだろうか?刀剣乱舞みたいな男擬人化もあると思うんだが。いや、男だったら男で、ちょっといいじゃねえか、と思いつつ、たぶんイラッとするから、なくていいかな。