大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

少子化になるわ!そら

正月妊活中をはばからない友人とあった。

我々は33歳。

高齢出産も目前の年齢だ。

だが私はどうも積極的に妊活をする気になれずにいる。夫が協力的ではないというところもあるし、私自身もわざわざ妊活してまで子どもがほしいと思えないのだ。

正直言って子どもが生まれた後のイメージがつかないというのもある。

だから、まあ、できればいいかなーくらいの気持ちで性欲に従い1,2週間に一度セックスしている感じだ。
そんな私に友人は言い放った。

「子どもが欲しかったら最低でも週3。毎日やってもいいくらい。とにかく回数を増やして確率をあげないと」

と言われた。

いや、待ってくれ。私は人生で最大級セックスしていたときだって多くて週2回ですけども。平日は仕事でセックスなんてできないし、というか彼氏や夫に会えなかったし、土日は1日は最低でも寝たい。1日1挿入以上したこともない。

年末に夫と

「超絶がんばってセックスするとしたら最大週何日?」

「仕事する時間、ゲームする時間、寝る時間考えたら週2回が限度かな」

「でもさ、仮に恋人が7人いたら飽きずに週7回できるんじゃない」

「いやいや死んでしまうわ」

という会話をしたばかり。

 

もしかして私は草食化が進むと言われる若者たちのフロントライン煮立っているのではないか。

もちろん翌日仕事でもセックスできるのだが正直平日は翌日の事を考えて憂鬱な気分になって性行為に前向きになれない。

仕事してたらセックスなんてできないよ。

年末のTVタックルで訳知り顔で若い女の子は「男子って草食なんですよー」と言っていてむかっ腹がたった。個人の資質に落とし込むのではなく、社会が若者からセックスする時間を奪っているだけじゃないのか。

仕事以外の時間でその他全てをやらにゃならんのですよ。我々は。と、イライラした話。

 

弱さを知る年末年始

友達というものについて考えてしまった。

サブカルどっぷりの小学校時代からの友達と久しぶりに話して、言語が違うことにすごい疎外感と、強烈に仲間に入りたい気持ちと、なぜ私はそこからドロップアウトしてしまったのか、というある種の罪悪感と、サブカルがよくわからない劣等感とでなんというか悶々とした気持ちになっている。

 

私がいいなと思っているものをガンガン否定されたせいもある。久しぶりに直球で否定された。無邪気に素直に人を否定できる友人のピュアさにある種心を打たれたが、同時に、心も折れてしまった。

 

私は、気がつくと友達と距離を置くなあと思っている。ツイッターでフォロアーさんと会話したことないし、ブログをやっていても人とろくに絡んだことがない。

親しくなればなるほど、自分の本音を吐き出せば吐き出すほど、距離を置いてしまう。心を閉じてしまう。

私ってなんでこう、人と距離を詰められないんだろう、と思う。

友達は多い方だが、共通の趣味の友達がどれだけいるだろうか?親友と呼べる存在がどれだけいるだろうか?

と、書いていて気がついたが、私はその友人と話していると友達の定義が揺れる。

中学時代からの付き合いの人とつるむとその頃の弱さが心の中に戻ってくるのかもしれないな。

 

…うん、心の平穏のために、人間関係はなるべく薄くしよう。

メンヘラ風邪から脱却〜あけおめ

改めましてあけましておめでとうございます。

おかげさまでメンヘラ風邪から脱却しました。

年末年始はひどい荒れ模様でしたが、お陰様で、復活しました。

とりあえず、ちょっとガス抜きができたし、抱えていた仕事のめどが付きそうなことで、心に平穏が少しもどってきました。もう私ただのワーカホリックじゃん。

まあ、メンヘラといっても、夫にいじけたメールを(隣りにいるのに)送りつけて号泣したり、夜から夜まで寝たり、ちょっとくらいの過食くらいで済むので、全然メンヘラって言えないですけどね。まあ、でも食べても食べても満たされませんけどね。ていうか食べたくないけど食べないと落ち着かないからお菓子を食べ、気がついたらスナック菓子の殻袋がえらいことになるわけです。

 

普通の人にいつか私もなれるのかな、なれないだろうなー。

家に帰りたくない

仕事に追われている時間が一番安心する。しかも、納期に多少の余裕があるうちは。正月元旦から仕事をできることに感謝を。家を脱出できたことに感謝を。

今年の正月はトップクラスにきつい。恩赦感がない。ただ「嫁として」の義務が私をがんじがらめに縛り上げる正月。これから私は嫁として行きなくてはならないのだ。嫁にとって正月は戦争なのだろう。戦わなくてはならない。

考えてみれば、私がこの職種を選んだのは、正月でも仕事をしなくてはならないからだ。どんなときでも家に帰りたくない。そんな思いだった。24時間365日、会社はいていて、仕事だと言えば家に帰らなくていい、そう思っていた。

だが、実際には、どんなにきつくても家に帰ってこなくてはいけない時はあるし、きついと今度はそれで心が壊れそうにもなる。どっちにいっても私には居場所がなかった。

普通の家庭ってなんだろうか?家に居場所があるってなんだろうか?息がつまらない家庭って、息がつまらない人間関係ってなんだろうか?

いつもいつも怒られていた。お前はだらしがない、気が利かない、要領が悪い。怒られることが当たり前だった。それ以外、家族との関係の築き方が分からない。

ほっとできる関係ってなんだろうか?どうやったら家族と人間関係を作れるのだろうか?私には分からない。一人は寂しいけれど、人が家の中にいると落ち着かない。

 

どうやって人が家の中にいるのに、リラックスをできるのだろうか?これ以上、私のダメな人間性がバレないようにどうやって過ごせるというのだろうか?とか、思ってる時点でやっぱ私って人間関係を紡ぐのが苦手なんだろうなーと思う。

本当は、家の中で、膝を抱えて壁を見据えているような根暗な人間なんだけど、他人には明るくて快活な女性と見られるように必死に仮面をかぶっている。

根暗でクソキモオタなんてことはバレバレだと思うけど、どうしてもバレるのが怖くて、気がつくと、いつも呼吸が浅くなって肩に力が入ってしまう。

 

ああ、どうやったらまともな人間になれるのだろうか…。

わかってる、全部私自身の問題なのだ。誰もきっと私のことを咎めてはいないのだ、ただ、私自身が私を誰よりも批難し、見下しているのだ。

限界を感じた2017年元旦

30日、張りつめていた糸が切れた。

夫の些細な一言が引き金になり、号泣。このままじゃ心が持たない。そう自覚した。家族があまりにいい人だから、私がずぼらだから、私がダメだからいけないのだと自分を責めていたが、考えてみれば、私はきついのだ。

家にいない間夫と共用の部屋に夫の母に入られ、洗濯物を勝手に畳まれ、時に干され、何かと面倒を見られる。両親の生活環境には入らないようにしているのに、私にはプライバシーがない。分かっている。時間がなく、家におらず、ずぼらな私に見かねた母が気を使ってやってくれているのだ。文句なんて言ってはいけない、受け入れなければならない。段取りが悪い私が悪いのだ。だが、私のプライバシーは?その無限ループ。

ありがたいことなのだが、まるで、自分の生活を監視されているような感覚がある。部屋から出るのも、トイレに行くのも、風呂に入るのも、誰かに見られている感覚がする。

朝起きれば朝ごはんの準備をしてもらえる。だから、朝挨拶するのが怖くなった。下手に起きれば朝ごはんの準備が始まる。私は食べたいだろうか?と自問自答する。そもそもなぜ他人が朝ごはんの支度をしてくれるのだろうか?どうやって争えばいいのだろうか?朝ごはんの支度を今されてもいいのだろうか?だがこのまま起きなければ、非常識な人間だと呆れられる。だが、目が覚めた時点で、いや寝る時間が遅い時点で、非常識な人間だ。私が起きてご飯を作らなければならないはずだ、だが私は怠っている。本来ならば…。だけど、なぜ私がやらなきゃならないのだろうか?という疑問も消えない。女だから?妻だから?嫁だから?

寝たふりすることでやり過ごすことしかできない。

気がつくと、両親が寝静まった後にしかリビングで息ができない。部屋にいたっていた上がって来られるか分からない。

グダグダしていると言われる。部屋をだらしなく汚していたら、だらしがない嫁だと見下され勝手に部屋を片付けられるかもしれない。

身動きが取れなくなり始めている。だけど一つも非がない、母に私は自分を責めることしかできない。夜遅くに寝ても朝早く起きられる完璧な母に私はあまりにも、ダメすぎる。自分のことで精一杯だ。家族を責めることはできない。あまりにもわたしは家族に甘えている。

感謝しなくてはならない。

 

そう思っていたが、布団にくるまって、嗚咽する自分自身の声を聞きながら、私誰のせいにもできないけど、きっと自分で自分を追い詰めて、結構限界なんじゃないかなと気がついた。

 

というか、この数日、家にいなきゃいけなかったり、休みだったりで、チョット距離が近すぎる。

 

誰も気がついてくれないしね。どう見たって私が悪いからさ。家事もしない、お荷物でしかない。

このままじゃ心が壊れてしまう。

結婚とは何か?を考える

義両親と同居して、ふと気がついたことがある。

今まで夫と結婚してから結婚したことの窮屈さとか感じたことなどなかった。

 

私は夫とルームシェアをしていたんだろうなということ。彼と私は同じように生活リズムが破綻している。だいたい朝方まで起きてるし、朝は起きられない。2,3日家に帰ってこないことに対しても抵抗感がない。基本的にはお互いテレビ業界にいるので、しょうがないのだが、ともかく、お互いがお互いに、自分のペースで生きている。家族の時間というやつがほぼ皆無だった。

だが、両親と同居して「朝ごはんは食べなさい」という圧や「お風呂はご飯を食べたらすぐ入りなさい」という圧が発生している。

家族のリズムというものを考えるとそれは正しいことなのだが、私達夫婦は、そういうリズムが特になかった。

別にいいかなと思っていた。

寝坊をした夫を見た母が「起こしてあげてね」と私に言う。私も気がつけば起こすが、別に、あなたが気にすることじゃないんじゃないですか、と思う。親心はもちろん分かるが、そんなもの自己管理すればいいだけの話だ。

ああ、これが家庭をもつことか、と思った。

家族とは、リズムがある。ルールがある。

私達2人で暮らしているときはお互いのリズムには干渉しないという不文律のルールがあった。だが、家族が増えるとそうも行かない。同じ家にバラバラの生活リズムをもった人が暮らすには、やはりある程度の規律が必要なのだろう。

たぶん、結婚ってこういうことを言うのだろう。正直、私は結婚に向かない人間なんだろうなと思う。義両親はかなり寛容な人で、嫁、として何科を求められるということはない。心から感謝しているけど、やはり、他人の生活リズムに巻き込まれるのは、正直うざったいし、息苦しい。私が自由人すぎるのだ。

 

ただ、夫も両親も妻としての性役割を私には決して求めてこない。した方がいい、など言われたり、してほしいのだろうなと思うことはあるが、強要はしてこないのだ。優しさと、申し訳無さで腸がねじれてブチ切れそうだけど、結婚とは、たぶんそういうものなのだろう。だからこそ、結婚は息苦しいし、皆疲れてしまうのだと思う。

 

 

 

記者だって悩むし病むのだよ

マスゴミ批判はとても耳が痛い。

実際、自分の周りにも「そのネタを取材したくせに、1冊の本も読んでいないの?我々の仕事は誰かを傷つける凶器になりえるのに…」と呆れてしまう人はいる。

だが、今日は、弱音を吐きたい。

記者だって人間だし、誰かを傷つける覚悟、自分にその刃が向くかもしれないという恐怖の中記事を書いたり、番組を作ることがある。
被写体にとって記者は、最初の視聴者だ。そして、通常ならば一方的に文句を言われるだけの視聴者だが、記者は文句を言ってもいい視聴者だ。しかも、「もうこんな取材受けるか!」と罵声を浴びせてもいい対象だ。

それでも、記者は、己の中の正義のためにその罵声に耐え忍ぶ。そんな言葉の暴力、時にガチの暴力をされる相手でも、一度取材をさせて頂ければ全力で守らなくてはならない対象だ。

なぜならば、被写体にとって、その暴力は、記者そのものに向けられるものではなく、記者を通した世間に向けられたものだからだ。その被写体の怒りをそのまま世間にぶつければ、世間はただただ反発するだろう。そんなことのために、被写体を危険にさらす訳にはいかない。

被写体に攻撃されながらも、被写体を守りながら、被写体の痛みを伝え、社会に問題提起をする。それが記者の姿だと思う。

正直、しんどい。正直敵だらけだ。被写体と同じように世間を憎むし、世間に言葉が届かない苛立ちも覚える。だけど、被写体は私に寄り添ってはくれないのだ。もちろん、それでいい。媒体に寄り添わなくてもいい。記者は、被写体を使って自分と被写体と同じ部分の怒りや疑問を社会にぶつける卑怯者なのだから、理解してもらわなくても、得るものは十二分にあるのだから。

だけど、その意思決定の度に、被写体に迷惑をかけていないか、被写体を傷つけないか、視聴者に届くか、真実を捻じ曲げていないか、独りよがりになっていないか、繰り返し繰り返し内省が続く。

それは絶対に逃れられないし、それができないなら、ドキュメンタリーなんて作っちゃいけない。真実は一つじゃないし、視点によって物事は形を変える。その複雑さを、シンプルな形に切り取り、伝えるのが記者の仕事なのだから。

 

まあ、そんなことやっているから量産ができないんですけど。

世間の記者に対する不信感に触れると、心が折れそうになる。頭では、そうやって疑われて、疎まれるのがこの仕事なのだとわかっているけれども…やっぱり、疎外感と孤独感、そして恐怖で、動けなくなってしまいそうになるな…。