大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

意識高い人のブログはなぜ面白くないのだろう

おちもなんもありません。タイトルが全てです。

意識高い人や、イケダハヤトとか、プロブロガーと言われている人(そこに共感している人)のブログはなんか読んでいると

「概ね言っていることは正しいけど、考察薄くない?」

とか

「方向性自体には賛同できるのになんでそっちの方向で納得できちゃうの?」

とか

「そこで話終わらせたら何も意味なくね?」

とか感じて、正直、読んでてイライラする。

 

正直言ってタイトル付けや方向性が面白い割に内容が伴っていない。そのくせ「オレ正しいこと言ってるキリッ」と周りを見下すようなことや、先導者にでもなったような物言いで断定しているのを見ると「お馬鹿さんなのかな?」と感じてしまう。

 

アクションを起こしていないから行動者としては落第だし、だからといって、キュレーターとしても半端だし、分析者としても半端だし、イノベーターとしても半端なのに、まるでオレは全てわかっているという書き方なのだ(前提部分ではへりくだりまくっているからそんなに自信はないんだろうけど)。なんとならないかなーと思う。

私のような弱者系の人にこういう中途半端なのに偉そうなブロガーが多いから辞めてほしい。

弱者系だからこそ、コアがしっかりしていないといけないと思うんだけどな〜。

まあ、弱者だからこそ中途半端なのは分かるけども。

働くために生きているのではない、人生を楽しむためにあるのが仕事のはずだ

昨年から徐々に増えていった仕事量とプレッシャーが爆発したように1月はほぼほぼ一つの仕事に心身のリソースを奪われてしまった。

残念ながらその仕事の規模は、かなり安い。こんなに良心的な価格設定で、誠意を尽くしているのに。まだちゃんと計算していないが、作業量を計算したら確実に赤だ。なぜこんなに尽くしているのに文句を言われないといけないのかと、本当に悔しい思いをしているが、私は3次受け。先方は元請けにたぶんかなりの額を支払っている。

クライアントに「高い金を支払ったのに」と言われても元請けは文句は言えないのだ。3次受けの私たち現場がただただ割を食う。

 

終わらない修正依頼、連日なぜか増える修正依頼。ころころ変わる方向性。厳密にはまだ終わってはいないが、納期に縛りがある仕事のため、もうすぐ強制終了させることができる。もしこれが納期の縛りがなかったら地獄の所業だった気がする。

 

今回の仕事はあらゆる反省点を感じたが、だが、やはり正直

「社会の多くの人はこんな不毛な働き方をずっと続けているのか…」という点を痛感させられた。

もちろん、サービス業、現物ではなくコンテンツ制作である以上、成果物に明確な良し悪しはなく、仕切り(フロントに立つ営業マンとクライアント)次第で仕事のきつさは変わってくる。今回は正直、仕切りの部分が初動から失敗していたと今になって思う。

だが、問題点はそこではない。

 

なんで金のためにここまでやらなきゃいかんのだろうか?というところだ。

 

最近、ずっと頭を支配していたのは、「金を稼がなきゃ」「夫がフリーでやっていけるくらいの年収を手に入れないと」「ローンを払わないと」「効率よく仕事して年収をあげないと」ということばかりだった。

 

だが、世の中の人が「効率よく、作業時間少なく金を稼ぎたい」と思っているから、皆が皆ビジネスモデルをこねくりまわして、物が溢れているのに、物を買わせることで、内需を増やして、経済の循環をさせようとしている。金を使わせようと、全ての人のつながりの間に金銭のやりとりを潜り込ませようとしている。

結果、人は孤独を金で解消しようとして、不要なものに金を使い、どんどん貧しくなってやいないだろうか?

 

私自身も夫や家族を救う手立てを金に頼ってやしないだろうか?金にソリューションを求めすぎやしないか?

 

なぜ仕事を始めると仕事ばかりで他のことができなくなるのか?もちろん体力がないというのはある。要領が悪いというのもある。だが、圧倒的に1日の大半が仕事に取られるというのはいかがなものなのか?

人類の本来の仕事は死ぬまで健康に生きるということではないのか?それを主目的と考えると、金銭を稼ぐ仕事など余暇にすぎないはずだ。

お金だけに依存しなくても、健康的に生きる方法はあるはずだ。

なぜ仕事という余暇に人生のリソースを奪われなくてはならないのか?しかも、本人が嫌だと、しんどいと思っているのに。

 

こんな出口の見えない労働環境ではこの国はダメになる、私自身がダメになると、震災を機に、仕事を辞めて、自分だけでも、自分の家族だけでもこの「金を稼ぐ使うの無限地獄」から脱する道を模索しようとしたはずなのに。気がつけば同じ無限地獄の入口に立とうとしている。

こんなことをするために、私は仕事を辞めたわけじゃない。ちゃんと答えを探さなくてはならない。目の前の仕事、金に惑わされていてはダメだ。

 

家族を、夫を、自分を幸せにするために。

少子化になるわ!そら

正月妊活中をはばからない友人とあった。

我々は33歳。

高齢出産も目前の年齢だ。

だが私はどうも積極的に妊活をする気になれずにいる。夫が協力的ではないというところもあるし、私自身もわざわざ妊活してまで子どもがほしいと思えないのだ。

正直言って子どもが生まれた後のイメージがつかないというのもある。

だから、まあ、できればいいかなーくらいの気持ちで性欲に従い1,2週間に一度セックスしている感じだ。
そんな私に友人は言い放った。

「子どもが欲しかったら最低でも週3。毎日やってもいいくらい。とにかく回数を増やして確率をあげないと」

と言われた。

いや、待ってくれ。私は人生で最大級セックスしていたときだって多くて週2回ですけども。平日は仕事でセックスなんてできないし、というか彼氏や夫に会えなかったし、土日は1日は最低でも寝たい。1日1挿入以上したこともない。

年末に夫と

「超絶がんばってセックスするとしたら最大週何日?」

「仕事する時間、ゲームする時間、寝る時間考えたら週2回が限度かな」

「でもさ、仮に恋人が7人いたら飽きずに週7回できるんじゃない」

「いやいや死んでしまうわ」

という会話をしたばかり。

 

もしかして私は草食化が進むと言われる若者たちのフロントライン煮立っているのではないか。

もちろん翌日仕事でもセックスできるのだが正直平日は翌日の事を考えて憂鬱な気分になって性行為に前向きになれない。

仕事してたらセックスなんてできないよ。

年末のTVタックルで訳知り顔で若い女の子は「男子って草食なんですよー」と言っていてむかっ腹がたった。個人の資質に落とし込むのではなく、社会が若者からセックスする時間を奪っているだけじゃないのか。

仕事以外の時間でその他全てをやらにゃならんのですよ。我々は。と、イライラした話。

 

弱さを知る年末年始

友達というものについて考えてしまった。

サブカルどっぷりの小学校時代からの友達と久しぶりに話して、言語が違うことにすごい疎外感と、強烈に仲間に入りたい気持ちと、なぜ私はそこからドロップアウトしてしまったのか、というある種の罪悪感と、サブカルがよくわからない劣等感とでなんというか悶々とした気持ちになっている。

 

私がいいなと思っているものをガンガン否定されたせいもある。久しぶりに直球で否定された。無邪気に素直に人を否定できる友人のピュアさにある種心を打たれたが、同時に、心も折れてしまった。

 

私は、気がつくと友達と距離を置くなあと思っている。ツイッターでフォロアーさんと会話したことないし、ブログをやっていても人とろくに絡んだことがない。

親しくなればなるほど、自分の本音を吐き出せば吐き出すほど、距離を置いてしまう。心を閉じてしまう。

私ってなんでこう、人と距離を詰められないんだろう、と思う。

友達は多い方だが、共通の趣味の友達がどれだけいるだろうか?親友と呼べる存在がどれだけいるだろうか?

と、書いていて気がついたが、私はその友人と話していると友達の定義が揺れる。

中学時代からの付き合いの人とつるむとその頃の弱さが心の中に戻ってくるのかもしれないな。

 

…うん、心の平穏のために、人間関係はなるべく薄くしよう。

メンヘラ風邪から脱却〜あけおめ

改めましてあけましておめでとうございます。

おかげさまでメンヘラ風邪から脱却しました。

年末年始はひどい荒れ模様でしたが、お陰様で、復活しました。

とりあえず、ちょっとガス抜きができたし、抱えていた仕事のめどが付きそうなことで、心に平穏が少しもどってきました。もう私ただのワーカホリックじゃん。

まあ、メンヘラといっても、夫にいじけたメールを(隣りにいるのに)送りつけて号泣したり、夜から夜まで寝たり、ちょっとくらいの過食くらいで済むので、全然メンヘラって言えないですけどね。まあ、でも食べても食べても満たされませんけどね。ていうか食べたくないけど食べないと落ち着かないからお菓子を食べ、気がついたらスナック菓子の殻袋がえらいことになるわけです。

 

普通の人にいつか私もなれるのかな、なれないだろうなー。

家に帰りたくない

仕事に追われている時間が一番安心する。しかも、納期に多少の余裕があるうちは。正月元旦から仕事をできることに感謝を。家を脱出できたことに感謝を。

今年の正月はトップクラスにきつい。恩赦感がない。ただ「嫁として」の義務が私をがんじがらめに縛り上げる正月。これから私は嫁として行きなくてはならないのだ。嫁にとって正月は戦争なのだろう。戦わなくてはならない。

考えてみれば、私がこの職種を選んだのは、正月でも仕事をしなくてはならないからだ。どんなときでも家に帰りたくない。そんな思いだった。24時間365日、会社はいていて、仕事だと言えば家に帰らなくていい、そう思っていた。

だが、実際には、どんなにきつくても家に帰ってこなくてはいけない時はあるし、きついと今度はそれで心が壊れそうにもなる。どっちにいっても私には居場所がなかった。

普通の家庭ってなんだろうか?家に居場所があるってなんだろうか?息がつまらない家庭って、息がつまらない人間関係ってなんだろうか?

いつもいつも怒られていた。お前はだらしがない、気が利かない、要領が悪い。怒られることが当たり前だった。それ以外、家族との関係の築き方が分からない。

ほっとできる関係ってなんだろうか?どうやったら家族と人間関係を作れるのだろうか?私には分からない。一人は寂しいけれど、人が家の中にいると落ち着かない。

 

どうやって人が家の中にいるのに、リラックスをできるのだろうか?これ以上、私のダメな人間性がバレないようにどうやって過ごせるというのだろうか?とか、思ってる時点でやっぱ私って人間関係を紡ぐのが苦手なんだろうなーと思う。

本当は、家の中で、膝を抱えて壁を見据えているような根暗な人間なんだけど、他人には明るくて快活な女性と見られるように必死に仮面をかぶっている。

根暗でクソキモオタなんてことはバレバレだと思うけど、どうしてもバレるのが怖くて、気がつくと、いつも呼吸が浅くなって肩に力が入ってしまう。

 

ああ、どうやったらまともな人間になれるのだろうか…。

わかってる、全部私自身の問題なのだ。誰もきっと私のことを咎めてはいないのだ、ただ、私自身が私を誰よりも批難し、見下しているのだ。

限界を感じた2017年元旦

30日、張りつめていた糸が切れた。

夫の些細な一言が引き金になり、号泣。このままじゃ心が持たない。そう自覚した。家族があまりにいい人だから、私がずぼらだから、私がダメだからいけないのだと自分を責めていたが、考えてみれば、私はきついのだ。

家にいない間夫と共用の部屋に夫の母に入られ、洗濯物を勝手に畳まれ、時に干され、何かと面倒を見られる。両親の生活環境には入らないようにしているのに、私にはプライバシーがない。分かっている。時間がなく、家におらず、ずぼらな私に見かねた母が気を使ってやってくれているのだ。文句なんて言ってはいけない、受け入れなければならない。段取りが悪い私が悪いのだ。だが、私のプライバシーは?その無限ループ。

ありがたいことなのだが、まるで、自分の生活を監視されているような感覚がある。部屋から出るのも、トイレに行くのも、風呂に入るのも、誰かに見られている感覚がする。

朝起きれば朝ごはんの準備をしてもらえる。だから、朝挨拶するのが怖くなった。下手に起きれば朝ごはんの準備が始まる。私は食べたいだろうか?と自問自答する。そもそもなぜ他人が朝ごはんの支度をしてくれるのだろうか?どうやって争えばいいのだろうか?朝ごはんの支度を今されてもいいのだろうか?だがこのまま起きなければ、非常識な人間だと呆れられる。だが、目が覚めた時点で、いや寝る時間が遅い時点で、非常識な人間だ。私が起きてご飯を作らなければならないはずだ、だが私は怠っている。本来ならば…。だけど、なぜ私がやらなきゃならないのだろうか?という疑問も消えない。女だから?妻だから?嫁だから?

寝たふりすることでやり過ごすことしかできない。

気がつくと、両親が寝静まった後にしかリビングで息ができない。部屋にいたっていた上がって来られるか分からない。

グダグダしていると言われる。部屋をだらしなく汚していたら、だらしがない嫁だと見下され勝手に部屋を片付けられるかもしれない。

身動きが取れなくなり始めている。だけど一つも非がない、母に私は自分を責めることしかできない。夜遅くに寝ても朝早く起きられる完璧な母に私はあまりにも、ダメすぎる。自分のことで精一杯だ。家族を責めることはできない。あまりにもわたしは家族に甘えている。

感謝しなくてはならない。

 

そう思っていたが、布団にくるまって、嗚咽する自分自身の声を聞きながら、私誰のせいにもできないけど、きっと自分で自分を追い詰めて、結構限界なんじゃないかなと気がついた。

 

というか、この数日、家にいなきゃいけなかったり、休みだったりで、チョット距離が近すぎる。

 

誰も気がついてくれないしね。どう見たって私が悪いからさ。家事もしない、お荷物でしかない。

このままじゃ心が壊れてしまう。