大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

私はいつも怯えて生きている

ふと、最近気づいたことがある。

私は素直ではないということ。

それは、他人に対して素直ではなくて、自分自身に対しても素直ではないということに気がついた。
仕事で書いたある文章の中で私は「「自分らしく」生きるべきと思いながらも30歳で結婚、35歳で出産に焦り、周りの目に怯える自分にずっと戸惑ってきた」と書いた。

 

あ、私、ずっと怯えてたんだ。
その文章が浮かんできたとに、やっとわかった。

 

何度も何度も推敲して「もっと平易な言葉で」「もっと自分の気持ちに素直に」と言われながらひねりだしたものだ。それまでに「素直と言われても、これ以上素直にってなにをかけばいいのさ?」と、うんざりした気持ちになっていた。私の内なる声が発するのは、「納得できない」「おかしい」という、不公平感や、怒りばかり。その先に一体何があるのか?私にはわからなかった。それがやっと見えた。

 

私自身のことを知るのは簡単なことじゃないんだなとなんとなく思った。私をいつも支配しているのはいつも、恐れだったんだなと思った。
自分が何をして良いのか分からなくなるくらい、私は、周りの目に怯えて、周りに悪目立ちしないように必死に自分に嘘をついて、虚勢を張って生きているんだと。私が自分を空っぽだと思うのは、たぶんいつも周りの目に怯えていて、「べき」に縛られているからだ。

いやもうそんなこと分かりきっていることなんだけど、心と理屈の間には、大きな隔たりがあった。私は傷つくことを恐れて、心を固く閉ざしているんだと思う。

心を開こうとしていたのに、人の心には土足で入っていけるのに、自分の心の中には、私自身が入っていけない。見ないふりをしているのだと思う。

どうやって心を溶かせば良いのかわからないけど、溶かしていかないことには、私はきっと救われない。

病み属性の私がキラキラ光属性の人々とやりあうために

大学卒業後、会社をやめ、奥さんと世界一周とかしちゃうニートなのかな?と思っていた先輩が気がついたらなんか世界レベルでデカい仕事する人になってた。

その人はSNSでなんか色んな仕事関係のつぶやきを無邪気にしていて、すごく眩しい。なにその無邪気さ、何そのかっこよさ、眩しい、目が潰れる…!

私のように、気がつくと、SNSに疲れ、受けた仕事は生真面目にこなしすぎ、疲弊し、軽々と生きられない。恋も仕事もSNSも身体も、取り憑かれてんじゃないかってくらい重い。

そんな光属性に、病み属性の私に勝ち目なんてあるわけない。

人生は勝ち負けじゃないよ

と大学生の頃、呆れ気味に人から言われたことがあったが、そんな正論は聞きたくない。そうはいっても、皆出世したいし、名声がほしいじゃないか!そんな比較欲求をおさえこんだところで、ねじ曲がるだけだ!美樹さやかが後悔なんてあるわけないっていいながらすげー後悔して魔女になったじゃないか!(まどマギ

 

別に勝ちたいわけじゃないんだ。ただ、私はわたしの道を生きたいだけなんだ。それで人に認められたいだけ。承認欲求を満たしたいだけ。承認欲求を満たした先にはさらなる承認欲求を満たす道しかないことは知っている。だから、本当は、承認欲求なんて満たしたくない、そこで戦ったら負けるよ!たぶん自分に。

 

何をいっているのか読んでいる人はただただコンフューズさせてしまっていると思うけど、私が一番コンフィグかかってるつーの!(FFシリーズ)

 

まあ、今生で私の生きる道を見つけられるのかわからないけれど、たった30余年の人生で一つだけヒントをみつけたことは、自分の現状を否定した所で、さらなる病みの沼にズボズボはまるだけだから、それはしないほうが良い。クソみたいな属性抱えていても、それでもそんな自分を抱えて生きていくしか道は無いのだから、否定は何も生み出さない。

 

キラキラパワーが眩しくて、強いように、きっと病みのちからも突き詰めれば、人を惹き付ける強いパワーになるはず、そう信じたい。自分が病みに飲み込まれないように、病みと生きていこう

 

(病みと闇をかけてはいるんだけど、あまりにもなんか使い勝手がいいから、もしかして語源一緒なんじゃないかなって思ったりしている今日このごろ)

 

 まどマギ絵が可愛すぎて嫌気してたけど、すげーおもしろいんですけど!

意識高い人のブログはなぜ面白くないのだろう

おちもなんもありません。タイトルが全てです。

意識高い人や、イケダハヤトとか、プロブロガーと言われている人(そこに共感している人)のブログはなんか読んでいると

「概ね言っていることは正しいけど、考察薄くない?」

とか

「方向性自体には賛同できるのになんでそっちの方向で納得できちゃうの?」

とか

「そこで話終わらせたら何も意味なくね?」

とか感じて、正直、読んでてイライラする。

 

正直言ってタイトル付けや方向性が面白い割に内容が伴っていない。そのくせ「オレ正しいこと言ってるキリッ」と周りを見下すようなことや、先導者にでもなったような物言いで断定しているのを見ると「お馬鹿さんなのかな?」と感じてしまう。

 

アクションを起こしていないから行動者としては落第だし、だからといって、キュレーターとしても半端だし、分析者としても半端だし、イノベーターとしても半端なのに、まるでオレは全てわかっているという書き方なのだ(前提部分ではへりくだりまくっているからそんなに自信はないんだろうけど)。なんとならないかなーと思う。

私のような弱者系の人にこういう中途半端なのに偉そうなブロガーが多いから辞めてほしい。

弱者系だからこそ、コアがしっかりしていないといけないと思うんだけどな〜。

まあ、弱者だからこそ中途半端なのは分かるけども。

働くために生きているのではない、人生を楽しむためにあるのが仕事のはずだ

昨年から徐々に増えていった仕事量とプレッシャーが爆発したように1月はほぼほぼ一つの仕事に心身のリソースを奪われてしまった。

残念ながらその仕事の規模は、かなり安い。こんなに良心的な価格設定で、誠意を尽くしているのに。まだちゃんと計算していないが、作業量を計算したら確実に赤だ。なぜこんなに尽くしているのに文句を言われないといけないのかと、本当に悔しい思いをしているが、私は3次受け。先方は元請けにたぶんかなりの額を支払っている。

クライアントに「高い金を支払ったのに」と言われても元請けは文句は言えないのだ。3次受けの私たち現場がただただ割を食う。

 

終わらない修正依頼、連日なぜか増える修正依頼。ころころ変わる方向性。厳密にはまだ終わってはいないが、納期に縛りがある仕事のため、もうすぐ強制終了させることができる。もしこれが納期の縛りがなかったら地獄の所業だった気がする。

 

今回の仕事はあらゆる反省点を感じたが、だが、やはり正直

「社会の多くの人はこんな不毛な働き方をずっと続けているのか…」という点を痛感させられた。

もちろん、サービス業、現物ではなくコンテンツ制作である以上、成果物に明確な良し悪しはなく、仕切り(フロントに立つ営業マンとクライアント)次第で仕事のきつさは変わってくる。今回は正直、仕切りの部分が初動から失敗していたと今になって思う。

だが、問題点はそこではない。

 

なんで金のためにここまでやらなきゃいかんのだろうか?というところだ。

 

最近、ずっと頭を支配していたのは、「金を稼がなきゃ」「夫がフリーでやっていけるくらいの年収を手に入れないと」「ローンを払わないと」「効率よく仕事して年収をあげないと」ということばかりだった。

 

だが、世の中の人が「効率よく、作業時間少なく金を稼ぎたい」と思っているから、皆が皆ビジネスモデルをこねくりまわして、物が溢れているのに、物を買わせることで、内需を増やして、経済の循環をさせようとしている。金を使わせようと、全ての人のつながりの間に金銭のやりとりを潜り込ませようとしている。

結果、人は孤独を金で解消しようとして、不要なものに金を使い、どんどん貧しくなってやいないだろうか?

 

私自身も夫や家族を救う手立てを金に頼ってやしないだろうか?金にソリューションを求めすぎやしないか?

 

なぜ仕事を始めると仕事ばかりで他のことができなくなるのか?もちろん体力がないというのはある。要領が悪いというのもある。だが、圧倒的に1日の大半が仕事に取られるというのはいかがなものなのか?

人類の本来の仕事は死ぬまで健康に生きるということではないのか?それを主目的と考えると、金銭を稼ぐ仕事など余暇にすぎないはずだ。

お金だけに依存しなくても、健康的に生きる方法はあるはずだ。

なぜ仕事という余暇に人生のリソースを奪われなくてはならないのか?しかも、本人が嫌だと、しんどいと思っているのに。

 

こんな出口の見えない労働環境ではこの国はダメになる、私自身がダメになると、震災を機に、仕事を辞めて、自分だけでも、自分の家族だけでもこの「金を稼ぐ使うの無限地獄」から脱する道を模索しようとしたはずなのに。気がつけば同じ無限地獄の入口に立とうとしている。

こんなことをするために、私は仕事を辞めたわけじゃない。ちゃんと答えを探さなくてはならない。目の前の仕事、金に惑わされていてはダメだ。

 

家族を、夫を、自分を幸せにするために。

少子化になるわ!そら

正月妊活中をはばからない友人とあった。

我々は33歳。

高齢出産も目前の年齢だ。

だが私はどうも積極的に妊活をする気になれずにいる。夫が協力的ではないというところもあるし、私自身もわざわざ妊活してまで子どもがほしいと思えないのだ。

正直言って子どもが生まれた後のイメージがつかないというのもある。

だから、まあ、できればいいかなーくらいの気持ちで性欲に従い1,2週間に一度セックスしている感じだ。
そんな私に友人は言い放った。

「子どもが欲しかったら最低でも週3。毎日やってもいいくらい。とにかく回数を増やして確率をあげないと」

と言われた。

いや、待ってくれ。私は人生で最大級セックスしていたときだって多くて週2回ですけども。平日は仕事でセックスなんてできないし、というか彼氏や夫に会えなかったし、土日は1日は最低でも寝たい。1日1挿入以上したこともない。

年末に夫と

「超絶がんばってセックスするとしたら最大週何日?」

「仕事する時間、ゲームする時間、寝る時間考えたら週2回が限度かな」

「でもさ、仮に恋人が7人いたら飽きずに週7回できるんじゃない」

「いやいや死んでしまうわ」

という会話をしたばかり。

 

もしかして私は草食化が進むと言われる若者たちのフロントライン煮立っているのではないか。

もちろん翌日仕事でもセックスできるのだが正直平日は翌日の事を考えて憂鬱な気分になって性行為に前向きになれない。

仕事してたらセックスなんてできないよ。

年末のTVタックルで訳知り顔で若い女の子は「男子って草食なんですよー」と言っていてむかっ腹がたった。個人の資質に落とし込むのではなく、社会が若者からセックスする時間を奪っているだけじゃないのか。

仕事以外の時間でその他全てをやらにゃならんのですよ。我々は。と、イライラした話。

 

弱さを知る年末年始

友達というものについて考えてしまった。

サブカルどっぷりの小学校時代からの友達と久しぶりに話して、言語が違うことにすごい疎外感と、強烈に仲間に入りたい気持ちと、なぜ私はそこからドロップアウトしてしまったのか、というある種の罪悪感と、サブカルがよくわからない劣等感とでなんというか悶々とした気持ちになっている。

 

私がいいなと思っているものをガンガン否定されたせいもある。久しぶりに直球で否定された。無邪気に素直に人を否定できる友人のピュアさにある種心を打たれたが、同時に、心も折れてしまった。

 

私は、気がつくと友達と距離を置くなあと思っている。ツイッターでフォロアーさんと会話したことないし、ブログをやっていても人とろくに絡んだことがない。

親しくなればなるほど、自分の本音を吐き出せば吐き出すほど、距離を置いてしまう。心を閉じてしまう。

私ってなんでこう、人と距離を詰められないんだろう、と思う。

友達は多い方だが、共通の趣味の友達がどれだけいるだろうか?親友と呼べる存在がどれだけいるだろうか?

と、書いていて気がついたが、私はその友人と話していると友達の定義が揺れる。

中学時代からの付き合いの人とつるむとその頃の弱さが心の中に戻ってくるのかもしれないな。

 

…うん、心の平穏のために、人間関係はなるべく薄くしよう。

メンヘラ風邪から脱却〜あけおめ

改めましてあけましておめでとうございます。

おかげさまでメンヘラ風邪から脱却しました。

年末年始はひどい荒れ模様でしたが、お陰様で、復活しました。

とりあえず、ちょっとガス抜きができたし、抱えていた仕事のめどが付きそうなことで、心に平穏が少しもどってきました。もう私ただのワーカホリックじゃん。

まあ、メンヘラといっても、夫にいじけたメールを(隣りにいるのに)送りつけて号泣したり、夜から夜まで寝たり、ちょっとくらいの過食くらいで済むので、全然メンヘラって言えないですけどね。まあ、でも食べても食べても満たされませんけどね。ていうか食べたくないけど食べないと落ち着かないからお菓子を食べ、気がついたらスナック菓子の殻袋がえらいことになるわけです。

 

普通の人にいつか私もなれるのかな、なれないだろうなー。