大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

強烈な男尊女卑を浴びた

取材相手になるか、グレーなラインの女性のリサーチのため、イベントに参加した。

そのイベントは、10人にも満たない小規模のもので、その女性の生い立ちを聞いていくというもの。貧困家庭、ネグレクト、薬物依存、レイプ、出産、繰り返す結婚離婚、水商売…その女性は典型的な貧困家庭に育ち、多くの中流家庭からしたら「壮絶な」生涯だが、貧困層からすれば決して飛び抜けて不幸ではなく、残念ながら「よくある」壮絶な家庭環境で育った女性だった。

そこに集まった方は、主催者の顔見知り、その女性を知る人が多く、アットホーム、距離の近い、座談会のようなイベントだった。

 

正直、私は、そこで、これ、どないしたらええのやろうという気持ちになってしまった。

ずっと整理がつかなかったが、その空間が女性の生涯を物味遊山で見てやろうという空気にしか感じられなかったからのように思う。それは、主催者が「その女性を知ってほしい」以上のコンセプトをもっていないせいかもしれない。*1

私も、「この女性、取材できるのか?彼女はどう活かせるのか?」を考えながら話を聞いていた。主軸となる話がなさすぎて、切り取れる場所がない。

それでも、いきなり質問から始まったそのイベントに、色々な質問が集まった。だが、どれも、純粋な好奇心、こういう場でなければ聞けないような下世話な質問ばかりだ。いうてしまえば、場末のバーで、安い酒を飲みながら、一見さんの客がママに昔の男をぐちぐち聞き出すような、そんな雰囲気だった。

この誠実さを感じられない、品の無い好奇心に、私はひどく居心地が悪かった。この女性は切り口によっては面白い、だが、彼女の人となりに私はどれだけ寄り添えるのか?ぐるぐる頭の中を回ってしまった。

あれを思い返すと、たぶん、変な言い方だが、まるで集団セクハラ、レイプでもしているような気持ち悪さだったのと思う。その時はわからなかったが。

あるいはストリップといってもよかった。集団で、人の柔らかいところを聞き出すということだ。彼女は、気丈な女性で、そんな話はいろんな会場でいくらでも講演している、という感じで意にも介していなかった。だが、私は、そうとはとても思えなかった。

聞き手の心さええぐられるような話を、安易に質問してはいけないし、安易に好奇心で聞いてはいけないと思う。答えてくれるから、聞いてほしいから、じゃだめだ。聞く方にも確実に覚悟がいる。

インタビューは一方通行のコミュニケーションではない。聞き手の人間性や感受性は話者によって常に試されている。その感受性いかんで、話者は喋る内容を取捨選択していくものだ。

だが、その場には、その緊張感が一切なかったのだ。自分たちは、試されていないという安心感か、双方向性の欠落を感じた。質問が無責任なのだ。女性はそんな粗野な眼差しに慣れているのか、質問にたいし、しっかりと答えていた。

 

それでも、女性の朗らかな人となりのおかげか、最後の方には、楽しく笑えるようにもなった。だが、最後に、何故来たのか?という参加者の挨拶で、私の心は完全に凍ってしまった。

「多角的にモノを見たくてきた」という主旨の話の中に「レイプや、アイドルの殺人未遂で、被害者の自己責任を問うものが一つもなかった、それは見方として一方向過ぎないかと思っている、女の方が、お客をその気にさせたり、一人でのこのこ男がいる場にいく方が悪かったのではないか、そんな視点もあってもいいはずだ」と、いう人がいた。

あまりの無神経さに、体が震えた。目の前に登壇している女性は、レイプされた経験がある女性なのに、なぜそんなことがのうのうといえるのか?思っていたとしても(思うことは罪ではなく、疑問をぶつけることはいいことだ)なぜ言葉を選び、もっとその場にいる女性全員への配慮をすることができないのか?

そして、その理屈で言えば、今ここで、私がレイプされたとしても、きっと社会の人はそういう目でみるんだろうなーと思った。

そのイベントでは、強烈な性描写も多く、参加者の7割は男性。夜、会場には寝泊まりもできる場所、こんな場にノコノコ一人で女がやってきているのだ、何かあれば私が非難されるのだろう、取材とかいっても、無防備に女が男がいるのに、性のことが語られる危険な場所に乗り出していくから…。

そして、それは、男性が、「女が乗っている満員電車なんて痴漢冤罪にあっても文句が言えない環境になぜわざわざ乗ったのか?両手を上げていなかったのか?自己責任ではないか」と言われているのと同じだとなぜわからないのか?

 

最後まで、ずっともやもやした。家に帰っても、あの居心地の悪さはなんともいえなかった。

今にして思えば。、私は、あの場で本当に気が抜けなかったのだと思う。「女」というだけで、下手な発言や所作は「スキ」と捉えられ、いつ軽んじていい女に転落するかわからない緊張感があった。 男性たちの無意識の「こんな卑猥な会にノコノコやってくるバカな女」という眼差しを常に感じていたのだろう。

 

だが、それこそが貧困層にいる女性たちが置かれている環境なのだろう。
「この女は軽んじてもいい女」と扱われいる。むしろ値踏みをされる前からたぶんその環境の中にあれば「軽んじていい女」なのだ。防衛のしようがない。

 

リベラル、中間層以上に属す女性、そして、40歳代以下の女性は、だいぶまだましな環境にいるのだろう。*2

まともな家のお嬢さんだから、正社員で働いている男の奥さんだから、ちゃんと学校を出ているから、正社員としてちゃんと働いているから…そんな理由で、免罪されているのだ、「この女は軽んじてはいけない側の女」と。

私は常に、「軽んじてはいけない側の女だった」。

だからあんなに露骨に「女だから何しても良い」という空気に晒されたのは、もしかしたら、初めてか、だいぶ久しぶりだ。子供の頃は受けていたかもしれない。あのころは気が付かなかっただけかもしれないし、対象ではなかった。

 

いつ、何をされても、全部自分が悪い、油断できない。

この環境下はきついなと思った。だが、その空気感を伝えられるのであれば意味はあるかもしれない。女が置かれているこの屈辱的な空気をうまく伝えられるのではあれば。

 

なんにしても、疲れたな…。

*1:主催者の純粋な想いは美しいと思うが、そこにどうしても無垢な傲慢さをしか感じられなかった。どうしても、オレの女を見てくれ、と言わんばかりのその女性をモノ扱いしているような不快感を私にずっと与えていた

*2:40歳以下といっても、貧困層は別だろうが。わからないが、30代でも、強烈に男尊女卑を隠し持っている人はいる。それでも、表面化させることが恥ずかしいこと、社会的タブーであることは理解しているので、露骨には出さない。上の世代は、女性に対して見下すことがある種の男らしさの誇示と思っているフシがあるため、露骨だ。まあ、でも若い女性にはさほど露骨ではないが

年代ごとに魅力はある

今この瞬間を大切にしなきゃいけないな、とふと思った。

変な話だが、人は徐々に変わる。年令によって顔は変わるし、体型も変わる。

それは、若いほうがいいとかそういうことではなく、その見た目を見る側の人も、年齢によって美醜の判断基準が変わるから、年齢それぞれで人は人を楽しむことができるんだなと気がついた。

女優は年を取ると劣化、なんて言われるが、本当にそうなのだろうか?宮沢りえは、若い頃より圧倒的に美しいと思うし、吉永小百合は衝撃的にかっこいいおばあちゃんだ。

なんて、正直、女性を例にしても私にはわからなかったけど、自分が30歳をすぎて、二十歳前後のひょろっとした男の子に、全然欲情できないことに気がついてきた。

おじさんの分厚いからだが好き。それは太っているとか、だらしない食生活とかじゃなくて、おじさんの、肉の付き方が、ある種の安心感を与えてくれる。ハタチ前後の男の子の体は少女のように儚い。それはそれで魅力的なんだけど、30歳、40歳を超えた男性の、何者に負けないような分厚いからだは、力強さという魅力がある。白髪交じりの顔、長年日光に焼かれたキメの粗い肌も、決して悪いものじゃない。

そう自分自身が30歳を超えたからこそ思えるのだと思う。若い女性にとって、壮年の男性の力強さは恐怖でしかない。だが、同じ時間をいきてきた私も、力強くウエストは太くなり、誰かを守れるように体が変化している。それを、太りやすくなったとつい嘆いてしまうけれども、それはたぶん違うんだと思う。若いまま、華奢さなままでは、たぶん人間はいきていけないんだと思う。子どもの成長を喜ぶように、大人たちも歳を重ねていくことを喜んだほうがいいし、その瞬間にしか出会えない、人の美しさに酔いしれたほうがいいと思う。

20歳だったあの頃の私にはもう会えないように、30代の私は今しか味わえないし、謳歌した方がいいに決まっている。若作りなんてしなくても、その年その年の美しさと、その年代にならないと備わらない感受性がある。

女性の私がそう思うのだから、男性だって、同世代の女性が好きに決まっている。若い子が好きなんて幻想だと思う。

…いや、若い子も好きなんだけど、同時に同世代の男性も好き。許容量が広がっている。

ということで、今この瞬間を、大切にしようと思う。

異様な高揚感が続いている

ひょんな事からツバメくんとデートまがいの密会ができてしまった!

二人でご飯を食べに行くという。そこでとても自然な流れ(相手の話の中で)彼の気持ちを聞き相談を受ける。

結婚できないんじゃないかと不安、家を継ぎたくない、趣味を追求したい、女が煩わしい、一人暮らしがしたい…

 

わかったようなことを答えながら、二人の時間を過ごす、仕事に充実感を覚え、安定した精神状態で、20代後半を謳歌する好青年が私と二人で、週末の夜を共有している。

 

少し酔っ払って、珍しく語尾がタメ口になる。繊細で、いつもガチガチの心の鎧をつけている彼に、少しのほころびが見える。

明日は日曜日、終電間近の場末の中華料理。

 

思わずトイレでつぶやく私。

これ、完全に持って帰れるじゃん…!

 

だが、勇気も根性もない私は、じゃあお会計しようと店員を呼び、彼の終電を気にしてそそくさと閉店間近の店を後にする。

 

家に帰って寝る前妄想する。あの状況で、どうやったら持ち帰れたのか?

カラオケ行かない?シャワー浴びたくない?と、ホテル街に踵を返す…ってどこのエロオヤジだよ。

 

やっぱりお酒をガンガン煽ってデロンデロンに酔わせて…いやいや、それ犯罪でしょ。

 

まともなソリューションが全く思いつかない。

まぁ、イマジネーションが働かない時点で彼の鎧は完全にはだけていたわけではない、たぶん、首筋が見えていただけで、私はそれで舞い上がっていたのだが…。

だが、このまま調子よく距離を詰めればいつかやれる日は来るかもしれない。いや、だが本当にそんな日が来てしまったら…。

なんて取らぬ狸の皮残余をしてしまうくらい高揚感が高まっている私だった。

ツバメくんに夫のことをいつもの調子で惚気ておいて、彼を手に入れらると思っている時点でお花畑だな。

そして、ツバメくんのことをかっこいいと思い、彼の繊細で誠実な人柄に触れて舞い上がりながら、やっぱり夫のことが誇らしくて自分にとって替えの聞かない存在なんだと改めて噛みしめたりして。

 

私はそして分かっている。私が彼に惹かれるように彼も私といて居心地が良いはずなのだ。だって私たちはとても傷つきやすく繊細な似た心を持っているから。だから、彼と私はたぶん付き合ったらお互いを傷つけあってしまうし、共依存のようなよくない関係になってしまうとも思う。

私には夫のように太陽にように明るく、強い人じゃないと、潰れてしまう。笑顔で、私の苦しみなんてリセットできてしまう、力強い人が私にはやっぱり必要で、きっとツバメくんも太陽のように明るい女性と付き合って欲しいと思う。

また会おうという約束をして、夫も紹介する約束もして、彼に密かに性的興奮を覚えながら、そんな自分に嘘をつくように家族ぐるみの付き合いを進めて行く私。

ツバメくんが好きで、ツバメくんを抱きたいけれども、彼には彼の幸せを手にしてほしい。彼の人生の幸福を願う。矛盾のなのに、矛盾じゃない。

 

 

私はいつも怯えて生きている

ふと、最近気づいたことがある。

私は素直ではないということ。

それは、他人に対して素直ではなくて、自分自身に対しても素直ではないということに気がついた。
仕事で書いたある文章の中で私は「「自分らしく」生きるべきと思いながらも30歳で結婚、35歳で出産に焦り、周りの目に怯える自分にずっと戸惑ってきた」と書いた。

 

あ、私、ずっと怯えてたんだ。
その文章が浮かんできたとに、やっとわかった。

 

何度も何度も推敲して「もっと平易な言葉で」「もっと自分の気持ちに素直に」と言われながらひねりだしたものだ。それまでに「素直と言われても、これ以上素直にってなにをかけばいいのさ?」と、うんざりした気持ちになっていた。私の内なる声が発するのは、「納得できない」「おかしい」という、不公平感や、怒りばかり。その先に一体何があるのか?私にはわからなかった。それがやっと見えた。

 

私自身のことを知るのは簡単なことじゃないんだなとなんとなく思った。私をいつも支配しているのはいつも、恐れだったんだなと思った。
自分が何をして良いのか分からなくなるくらい、私は、周りの目に怯えて、周りに悪目立ちしないように必死に自分に嘘をついて、虚勢を張って生きているんだと。私が自分を空っぽだと思うのは、たぶんいつも周りの目に怯えていて、「べき」に縛られているからだ。

いやもうそんなこと分かりきっていることなんだけど、心と理屈の間には、大きな隔たりがあった。私は傷つくことを恐れて、心を固く閉ざしているんだと思う。

心を開こうとしていたのに、人の心には土足で入っていけるのに、自分の心の中には、私自身が入っていけない。見ないふりをしているのだと思う。

どうやって心を溶かせば良いのかわからないけど、溶かしていかないことには、私はきっと救われない。

病み属性の私がキラキラ光属性の人々とやりあうために

大学卒業後、会社をやめ、奥さんと世界一周とかしちゃうニートなのかな?と思っていた先輩が気がついたらなんか世界レベルでデカい仕事する人になってた。

その人はSNSでなんか色んな仕事関係のつぶやきを無邪気にしていて、すごく眩しい。なにその無邪気さ、何そのかっこよさ、眩しい、目が潰れる…!

私のように、気がつくと、SNSに疲れ、受けた仕事は生真面目にこなしすぎ、疲弊し、軽々と生きられない。恋も仕事もSNSも身体も、取り憑かれてんじゃないかってくらい重い。

そんな光属性に、病み属性の私に勝ち目なんてあるわけない。

人生は勝ち負けじゃないよ

と大学生の頃、呆れ気味に人から言われたことがあったが、そんな正論は聞きたくない。そうはいっても、皆出世したいし、名声がほしいじゃないか!そんな比較欲求をおさえこんだところで、ねじ曲がるだけだ!美樹さやかが後悔なんてあるわけないっていいながらすげー後悔して魔女になったじゃないか!(まどマギ

 

別に勝ちたいわけじゃないんだ。ただ、私はわたしの道を生きたいだけなんだ。それで人に認められたいだけ。承認欲求を満たしたいだけ。承認欲求を満たした先にはさらなる承認欲求を満たす道しかないことは知っている。だから、本当は、承認欲求なんて満たしたくない、そこで戦ったら負けるよ!たぶん自分に。

 

何をいっているのか読んでいる人はただただコンフューズさせてしまっていると思うけど、私が一番コンフィグかかってるつーの!(FFシリーズ)

 

まあ、今生で私の生きる道を見つけられるのかわからないけれど、たった30余年の人生で一つだけヒントをみつけたことは、自分の現状を否定した所で、さらなる病みの沼にズボズボはまるだけだから、それはしないほうが良い。クソみたいな属性抱えていても、それでもそんな自分を抱えて生きていくしか道は無いのだから、否定は何も生み出さない。

 

キラキラパワーが眩しくて、強いように、きっと病みのちからも突き詰めれば、人を惹き付ける強いパワーになるはず、そう信じたい。自分が病みに飲み込まれないように、病みと生きていこう

 

(病みと闇をかけてはいるんだけど、あまりにもなんか使い勝手がいいから、もしかして語源一緒なんじゃないかなって思ったりしている今日このごろ)

 

 まどマギ絵が可愛すぎて嫌気してたけど、すげーおもしろいんですけど!

意識高い人のブログはなぜ面白くないのだろう

おちもなんもありません。タイトルが全てです。

意識高い人や、イケダハヤトとか、プロブロガーと言われている人(そこに共感している人)のブログはなんか読んでいると

「概ね言っていることは正しいけど、考察薄くない?」

とか

「方向性自体には賛同できるのになんでそっちの方向で納得できちゃうの?」

とか

「そこで話終わらせたら何も意味なくね?」

とか感じて、正直、読んでてイライラする。

 

正直言ってタイトル付けや方向性が面白い割に内容が伴っていない。そのくせ「オレ正しいこと言ってるキリッ」と周りを見下すようなことや、先導者にでもなったような物言いで断定しているのを見ると「お馬鹿さんなのかな?」と感じてしまう。

 

アクションを起こしていないから行動者としては落第だし、だからといって、キュレーターとしても半端だし、分析者としても半端だし、イノベーターとしても半端なのに、まるでオレは全てわかっているという書き方なのだ(前提部分ではへりくだりまくっているからそんなに自信はないんだろうけど)。なんとならないかなーと思う。

私のような弱者系の人にこういう中途半端なのに偉そうなブロガーが多いから辞めてほしい。

弱者系だからこそ、コアがしっかりしていないといけないと思うんだけどな〜。

まあ、弱者だからこそ中途半端なのは分かるけども。

働くために生きているのではない、人生を楽しむためにあるのが仕事のはずだ

昨年から徐々に増えていった仕事量とプレッシャーが爆発したように1月はほぼほぼ一つの仕事に心身のリソースを奪われてしまった。

残念ながらその仕事の規模は、かなり安い。こんなに良心的な価格設定で、誠意を尽くしているのに。まだちゃんと計算していないが、作業量を計算したら確実に赤だ。なぜこんなに尽くしているのに文句を言われないといけないのかと、本当に悔しい思いをしているが、私は3次受け。先方は元請けにたぶんかなりの額を支払っている。

クライアントに「高い金を支払ったのに」と言われても元請けは文句は言えないのだ。3次受けの私たち現場がただただ割を食う。

 

終わらない修正依頼、連日なぜか増える修正依頼。ころころ変わる方向性。厳密にはまだ終わってはいないが、納期に縛りがある仕事のため、もうすぐ強制終了させることができる。もしこれが納期の縛りがなかったら地獄の所業だった気がする。

 

今回の仕事はあらゆる反省点を感じたが、だが、やはり正直

「社会の多くの人はこんな不毛な働き方をずっと続けているのか…」という点を痛感させられた。

もちろん、サービス業、現物ではなくコンテンツ制作である以上、成果物に明確な良し悪しはなく、仕切り(フロントに立つ営業マンとクライアント)次第で仕事のきつさは変わってくる。今回は正直、仕切りの部分が初動から失敗していたと今になって思う。

だが、問題点はそこではない。

 

なんで金のためにここまでやらなきゃいかんのだろうか?というところだ。

 

最近、ずっと頭を支配していたのは、「金を稼がなきゃ」「夫がフリーでやっていけるくらいの年収を手に入れないと」「ローンを払わないと」「効率よく仕事して年収をあげないと」ということばかりだった。

 

だが、世の中の人が「効率よく、作業時間少なく金を稼ぎたい」と思っているから、皆が皆ビジネスモデルをこねくりまわして、物が溢れているのに、物を買わせることで、内需を増やして、経済の循環をさせようとしている。金を使わせようと、全ての人のつながりの間に金銭のやりとりを潜り込ませようとしている。

結果、人は孤独を金で解消しようとして、不要なものに金を使い、どんどん貧しくなってやいないだろうか?

 

私自身も夫や家族を救う手立てを金に頼ってやしないだろうか?金にソリューションを求めすぎやしないか?

 

なぜ仕事を始めると仕事ばかりで他のことができなくなるのか?もちろん体力がないというのはある。要領が悪いというのもある。だが、圧倒的に1日の大半が仕事に取られるというのはいかがなものなのか?

人類の本来の仕事は死ぬまで健康に生きるということではないのか?それを主目的と考えると、金銭を稼ぐ仕事など余暇にすぎないはずだ。

お金だけに依存しなくても、健康的に生きる方法はあるはずだ。

なぜ仕事という余暇に人生のリソースを奪われなくてはならないのか?しかも、本人が嫌だと、しんどいと思っているのに。

 

こんな出口の見えない労働環境ではこの国はダメになる、私自身がダメになると、震災を機に、仕事を辞めて、自分だけでも、自分の家族だけでもこの「金を稼ぐ使うの無限地獄」から脱する道を模索しようとしたはずなのに。気がつけば同じ無限地獄の入口に立とうとしている。

こんなことをするために、私は仕事を辞めたわけじゃない。ちゃんと答えを探さなくてはならない。目の前の仕事、金に惑わされていてはダメだ。

 

家族を、夫を、自分を幸せにするために。