たぶんむりしていきてるんだろーーーなー
ふと思ったのだが、私はけっこう無理して生きているかもしれない。どの辺が無理しているかというと、女のふりをしている、という時点でけっこうな無理なんじゃないかという気がしてきた。
私はなんとなく一つのところで、自分の気持ちを吐き出せなくて色んなところで文章(ブログ)を書いているのだが、どっかのサイトで吐き出したことに自分の性自認がどうしても女性であることを受け入れられない的なものを書いた。
それを見返してみて、今、私が女のふりをして、「女子」を名乗って「妻」を名乗って、「嫁」を名乗っていることって、実は自分が思っている以上に辛い作業なんじゃないだろうか?と感じたのだ。
『「女」として生きなければならない』その圧が自分を自分を縛っている。もちろん、女として生きたいという気持ちがどこかにあるのかもしれないが、それ以上に女として見られることにどうしても耐えられないと思っている。
子供の頃よりも、そうやって見られることにおびえている。ような気がする。子供の頃は体型も太っていたし、今ほどしゃれおつでもなかったから、ちいさいでぶっちょの不細工少年として見られることもままあった。だが、今は、パット見「男?女?どっちだ?」という怪訝な顔で見られることはあるのだが、基本的には女に見えていると思う(カバンとかカジュアルな女性向けのものが多いし)。あと、名前が女だし、声が女だ。男ということにもしていない。
だが、私はそろそろ、本気で、男に見える努力をした方がいいかもしれないな。心が壊れてしまうかもしれない。
元気にやってます
前に書いた日記が、なんか嵐の中すぎて、ちょっとこの人大丈夫かな、というテイストになっていたので、大丈夫。
元気にやってます。
筋トレばっかやってます。でもね、全然身体が強くない無いよね。ふとっちょのまんまです。ええ。
体重は落ちるだけじゃだめ、引き締めないと!だけど30年怠けに怠けたこの身体は早々簡単に、鍛えられません。身体の芯に筋肉がない。
今、具体的な仕事の愚痴しか思いつかないので、書くことがありません。
企画書がね、空中分解しているんですよ。わーわーわー。もうまとまる気がしなくなってきた。
どうしたらまともに生きられるのだろうか
生きていることに常に罪悪感がつきまとう。
朝起きられなくてごめんなさい
家事ができなくてごめんなさい
まともに稼げなくてごめんなさい
大きく言えばこんな感じだけど、本当はいろんなこと、一挙手一投足が申し訳ない。私が物音を立てることも、部屋から出ることも、冷蔵庫をあけることも。
会社にいけば行くで、そこで、メンバーとして正しい態度を取れない自分が申し訳ない。まともに稼げていない自分がいたたまれない。
生きていることが申し訳ない。クソの役にも立たなくて木偶の坊で申し訳ない。
働きたくはない。だけど、働かないと居場所もない。
だけど、だからいって働くこともできない。金を稼ぐことが怖くてたまらない。
仕事は好きだけど、手を抜くことができなくて、もう1度働いたら、半年くらいはもう働きたくない。だけど、働かないと罪悪感で死にそうになる。
息苦しい。どうしたら生きていいと思えるのだろうか?苦しい。
なんで生きていなきゃいけないんだろうか。
誰かに生きていていいと認めて欲しい。
いや、認められなくても、本当は生きていていいはずなのに、どうして、ただ生きているだけの自分をこんなに許せないのだろうか。
許して欲しい、生きているだけでいいと言って欲しい。
善人ではいられない
フリーランス、営業、社長、それはたぶん、善人ではなれない。優しいふりをしていてはなれないと思った。
私は、善人であろうとするから辛いのだろうなと思った。
自分の利益を主張しないといけない。自分の取り分を、主張しないといけない。相手のいいなりになっていたら、自分の仕事が無限に増えていく。
仕事のギャラを減らす覚悟で、自分ができることを主張していかなくてはならない。
メンタルが弱い私にそんなことができるだろうか。
「私の値段ってこんなに安んですか?」
「あなたのマネジメントに問題があるから、事故が発生したのではないか?」
悪いことではない、安請け合いすると自分の首をしめる。どんな態度でも、自分自身を自分で守らなくてはならない。100%自分に非があることなんて本当はそんなにない。相手にも日があることを勘案した上で戦わないといけない。私がすべて悪いです、なんて態度とっていたら、フリーランスではやっていけないんだ。
自分に甘くならなくてはならない。多少の万能感は必要だ。自分の能力なんてこの価格に見合わない、なんておもっちゃいけない。
自分を善人にしたいと思っていたら、私はだめだ。バカにされても、陰口を叩かれても、それでも自分は間違っていない、と、もっと戦えないと、私は自分の労働力を叩き売って、安請け合いして、私生活の時間を削る以外に働くすべがなくなってしまう。
強烈な男尊女卑を浴びた
取材相手になるか、グレーなラインの女性のリサーチのため、イベントに参加した。
そのイベントは、10人にも満たない小規模のもので、その女性の生い立ちを聞いていくというもの。貧困家庭、ネグレクト、薬物依存、レイプ、出産、繰り返す結婚離婚、水商売…その女性は典型的な貧困家庭に育ち、多くの中流家庭からしたら「壮絶な」生涯だが、貧困層からすれば決して飛び抜けて不幸ではなく、残念ながら「よくある」壮絶な家庭環境で育った女性だった。
そこに集まった方は、主催者の顔見知り、その女性を知る人が多く、アットホーム、距離の近い、座談会のようなイベントだった。
正直、私は、そこで、これ、どないしたらええのやろうという気持ちになってしまった。
ずっと整理がつかなかったが、その空間が女性の生涯を物味遊山で見てやろうという空気にしか感じられなかったからのように思う。それは、主催者が「その女性を知ってほしい」以上のコンセプトをもっていないせいかもしれない。*1
私も、「この女性、取材できるのか?彼女はどう活かせるのか?」を考えながら話を聞いていた。主軸となる話がなさすぎて、切り取れる場所がない。
それでも、いきなり質問から始まったそのイベントに、色々な質問が集まった。だが、どれも、純粋な好奇心、こういう場でなければ聞けないような下世話な質問ばかりだ。いうてしまえば、場末のバーで、安い酒を飲みながら、一見さんの客がママに昔の男をぐちぐち聞き出すような、そんな雰囲気だった。
この誠実さを感じられない、品の無い好奇心に、私はひどく居心地が悪かった。この女性は切り口によっては面白い、だが、彼女の人となりに私はどれだけ寄り添えるのか?ぐるぐる頭の中を回ってしまった。
あれを思い返すと、たぶん、変な言い方だが、まるで集団セクハラ、レイプでもしているような気持ち悪さだったのと思う。その時はわからなかったが。
あるいはストリップといってもよかった。集団で、人の柔らかいところを聞き出すということだ。彼女は、気丈な女性で、そんな話はいろんな会場でいくらでも講演している、という感じで意にも介していなかった。だが、私は、そうとはとても思えなかった。
聞き手の心さええぐられるような話を、安易に質問してはいけないし、安易に好奇心で聞いてはいけないと思う。答えてくれるから、聞いてほしいから、じゃだめだ。聞く方にも確実に覚悟がいる。
インタビューは一方通行のコミュニケーションではない。聞き手の人間性や感受性は話者によって常に試されている。その感受性いかんで、話者は喋る内容を取捨選択していくものだ。
だが、その場には、その緊張感が一切なかったのだ。自分たちは、試されていないという安心感か、双方向性の欠落を感じた。質問が無責任なのだ。女性はそんな粗野な眼差しに慣れているのか、質問にたいし、しっかりと答えていた。
それでも、女性の朗らかな人となりのおかげか、最後の方には、楽しく笑えるようにもなった。だが、最後に、何故来たのか?という参加者の挨拶で、私の心は完全に凍ってしまった。
「多角的にモノを見たくてきた」という主旨の話の中に「レイプや、アイドルの殺人未遂で、被害者の自己責任を問うものが一つもなかった、それは見方として一方向過ぎないかと思っている、女の方が、お客をその気にさせたり、一人でのこのこ男がいる場にいく方が悪かったのではないか、そんな視点もあってもいいはずだ」と、いう人がいた。
あまりの無神経さに、体が震えた。目の前に登壇している女性は、レイプされた経験がある女性なのに、なぜそんなことがのうのうといえるのか?思っていたとしても(思うことは罪ではなく、疑問をぶつけることはいいことだ)なぜ言葉を選び、もっとその場にいる女性全員への配慮をすることができないのか?
そして、その理屈で言えば、今ここで、私がレイプされたとしても、きっと社会の人はそういう目でみるんだろうなーと思った。
そのイベントでは、強烈な性描写も多く、参加者の7割は男性。夜、会場には寝泊まりもできる場所、こんな場にノコノコ一人で女がやってきているのだ、何かあれば私が非難されるのだろう、取材とかいっても、無防備に女が男がいるのに、性のことが語られる危険な場所に乗り出していくから…。
そして、それは、男性が、「女が乗っている満員電車なんて痴漢冤罪にあっても文句が言えない環境になぜわざわざ乗ったのか?両手を上げていなかったのか?自己責任ではないか」と言われているのと同じだとなぜわからないのか?
最後まで、ずっともやもやした。家に帰っても、あの居心地の悪さはなんともいえなかった。
今にして思えば。、私は、あの場で本当に気が抜けなかったのだと思う。「女」というだけで、下手な発言や所作は「スキ」と捉えられ、いつ軽んじていい女に転落するかわからない緊張感があった。 男性たちの無意識の「こんな卑猥な会にノコノコやってくるバカな女」という眼差しを常に感じていたのだろう。
だが、それこそが貧困層にいる女性たちが置かれている環境なのだろう。
「この女は軽んじてもいい女」と扱われいる。むしろ値踏みをされる前からたぶんその環境の中にあれば「軽んじていい女」なのだ。防衛のしようがない。
リベラル、中間層以上に属す女性、そして、40歳代以下の女性は、だいぶまだましな環境にいるのだろう。*2
まともな家のお嬢さんだから、正社員で働いている男の奥さんだから、ちゃんと学校を出ているから、正社員としてちゃんと働いているから…そんな理由で、免罪されているのだ、「この女は軽んじてはいけない側の女」と。
私は常に、「軽んじてはいけない側の女だった」。
だからあんなに露骨に「女だから何しても良い」という空気に晒されたのは、もしかしたら、初めてか、だいぶ久しぶりだ。子供の頃は受けていたかもしれない。あのころは気が付かなかっただけかもしれないし、対象ではなかった。
いつ、何をされても、全部自分が悪い、油断できない。
この環境下はきついなと思った。だが、その空気感を伝えられるのであれば意味はあるかもしれない。女が置かれているこの屈辱的な空気をうまく伝えられるのではあれば。
なんにしても、疲れたな…。
年代ごとに魅力はある
今この瞬間を大切にしなきゃいけないな、とふと思った。
変な話だが、人は徐々に変わる。年令によって顔は変わるし、体型も変わる。
それは、若いほうがいいとかそういうことではなく、その見た目を見る側の人も、年齢によって美醜の判断基準が変わるから、年齢それぞれで人は人を楽しむことができるんだなと気がついた。
女優は年を取ると劣化、なんて言われるが、本当にそうなのだろうか?宮沢りえは、若い頃より圧倒的に美しいと思うし、吉永小百合は衝撃的にかっこいいおばあちゃんだ。
なんて、正直、女性を例にしても私にはわからなかったけど、自分が30歳をすぎて、二十歳前後のひょろっとした男の子に、全然欲情できないことに気がついてきた。
おじさんの分厚いからだが好き。それは太っているとか、だらしない食生活とかじゃなくて、おじさんの、肉の付き方が、ある種の安心感を与えてくれる。ハタチ前後の男の子の体は少女のように儚い。それはそれで魅力的なんだけど、30歳、40歳を超えた男性の、何者に負けないような分厚いからだは、力強さという魅力がある。白髪交じりの顔、長年日光に焼かれたキメの粗い肌も、決して悪いものじゃない。
そう自分自身が30歳を超えたからこそ思えるのだと思う。若い女性にとって、壮年の男性の力強さは恐怖でしかない。だが、同じ時間をいきてきた私も、力強くウエストは太くなり、誰かを守れるように体が変化している。それを、太りやすくなったとつい嘆いてしまうけれども、それはたぶん違うんだと思う。若いまま、華奢さなままでは、たぶん人間はいきていけないんだと思う。子どもの成長を喜ぶように、大人たちも歳を重ねていくことを喜んだほうがいいし、その瞬間にしか出会えない、人の美しさに酔いしれたほうがいいと思う。
20歳だったあの頃の私にはもう会えないように、30代の私は今しか味わえないし、謳歌した方がいいに決まっている。若作りなんてしなくても、その年その年の美しさと、その年代にならないと備わらない感受性がある。
女性の私がそう思うのだから、男性だって、同世代の女性が好きに決まっている。若い子が好きなんて幻想だと思う。
…いや、若い子も好きなんだけど、同時に同世代の男性も好き。許容量が広がっている。
ということで、今この瞬間を、大切にしようと思う。
異様な高揚感が続いている
ひょんな事からツバメくんとデートまがいの密会ができてしまった!
二人でご飯を食べに行くという。そこでとても自然な流れ(相手の話の中で)彼の気持ちを聞き相談を受ける。
結婚できないんじゃないかと不安、家を継ぎたくない、趣味を追求したい、女が煩わしい、一人暮らしがしたい…
わかったようなことを答えながら、二人の時間を過ごす、仕事に充実感を覚え、安定した精神状態で、20代後半を謳歌する好青年が私と二人で、週末の夜を共有している。
少し酔っ払って、珍しく語尾がタメ口になる。繊細で、いつもガチガチの心の鎧をつけている彼に、少しのほころびが見える。
明日は日曜日、終電間近の場末の中華料理。
思わずトイレでつぶやく私。
これ、完全に持って帰れるじゃん…!
だが、勇気も根性もない私は、じゃあお会計しようと店員を呼び、彼の終電を気にしてそそくさと閉店間近の店を後にする。
家に帰って寝る前妄想する。あの状況で、どうやったら持ち帰れたのか?
カラオケ行かない?シャワー浴びたくない?と、ホテル街に踵を返す…ってどこのエロオヤジだよ。
やっぱりお酒をガンガン煽ってデロンデロンに酔わせて…いやいや、それ犯罪でしょ。
まともなソリューションが全く思いつかない。
まぁ、イマジネーションが働かない時点で彼の鎧は完全にはだけていたわけではない、たぶん、首筋が見えていただけで、私はそれで舞い上がっていたのだが…。
だが、このまま調子よく距離を詰めればいつかやれる日は来るかもしれない。いや、だが本当にそんな日が来てしまったら…。
なんて取らぬ狸の皮残余をしてしまうくらい高揚感が高まっている私だった。
ツバメくんに夫のことをいつもの調子で惚気ておいて、彼を手に入れらると思っている時点でお花畑だな。
そして、ツバメくんのことをかっこいいと思い、彼の繊細で誠実な人柄に触れて舞い上がりながら、やっぱり夫のことが誇らしくて自分にとって替えの聞かない存在なんだと改めて噛みしめたりして。
私はそして分かっている。私が彼に惹かれるように彼も私といて居心地が良いはずなのだ。だって私たちはとても傷つきやすく繊細な似た心を持っているから。だから、彼と私はたぶん付き合ったらお互いを傷つけあってしまうし、共依存のようなよくない関係になってしまうとも思う。
私には夫のように太陽にように明るく、強い人じゃないと、潰れてしまう。笑顔で、私の苦しみなんてリセットできてしまう、力強い人が私にはやっぱり必要で、きっとツバメくんも太陽のように明るい女性と付き合って欲しいと思う。
また会おうという約束をして、夫も紹介する約束もして、彼に密かに性的興奮を覚えながら、そんな自分に嘘をつくように家族ぐるみの付き合いを進めて行く私。
ツバメくんが好きで、ツバメくんを抱きたいけれども、彼には彼の幸せを手にしてほしい。彼の人生の幸福を願う。矛盾のなのに、矛盾じゃない。