育て直し(自分を)

どうやって生きていくのかぼんやり考えるブログ

定点観測は大事かもしれない

最近、もうだるくてだるくて仕方がない。

家の階段が辛い、夜家に帰ったらなにもする気にならない。なんなんだ、取り憑かれてるのか?と、思ったら、一年前の同じ時期にほぼ同じこと呟いてた。はてブの一年前の投稿のお知らせを見て気がついた。

 

リンク貼り直しました 

mangobus.hatenablog.com

 

運動したいのだが、どうもからだの調子が良くなく(運動不足で体がこっているだけかもしれないが)どうにもだるい。

やらなきゃいけないこと、落ち込むこと、そんな毎日に追われ、気がついたら連休中は、1日か、2日しか休みがない。

仕事はしていたようだが、グッタリしてる。

 

ということは、たぶんだが、単純にまだ暑さなど気候の変化に耐えられず体が悲鳴をあげているのが、今の季節、5月なのでは?という気がしてきた。

 

たぶん、毎年なんとなく具合が悪く、なんとなく、だるっ!と思っているのだろう。

しかし、去年に比べると私は確実に体力をつけているのかも。山登り二回行ってるし。よし、体力つけよう。

 

あと、LGBT当事者意識についても、なかなか興味深い発見をした。

3年前の投稿。

mangobus.hatenablog.com

 

 

人間ってやつは絶対先天的要素と後天的要素で出来ているものだろう。だから、今後私は再び性の不一致を再燃させてガッツリレズになったり、FTMになる可能性だってゼロではないとは思う。

FTMそのものに性的指向が関係ないことを2年前の私は知らなかった。(男性だという性自認を持っている人は女を好きになる人だけだと思ってた)

 

乳房を切り落としたい気持ちとか、ちんこがほしい気持ちとか、男の人に、男として扱ってもらえない屈辱感とか…。まあ、私はそこは(しぶしぶ)折り合いがついたので、私はただのミソジニー女性嫌悪)が強烈なだけなんだと思いますけどね。

今読み返すと、全然納得してないんだなぁと素直に思えるけど、この時は女として生きるしかないと、思っていた。いや、今も思ってるけど、でも、自分の中に湧き上がる、違和感をなかったことにしなくていい、無理して女のふりをして生きなくても良いのだがと思えるようになった。私は勘違い野郎じゃないし、トランスジェンダーは、自分と同じように悩む人で、私は彼らに対して無理解な敵対者ではない。自分の存在を否定して、貶めなくていい。と思えるようになったのはやっぱり心が健康になったからかもしれない。

 

また将来読み返していた時はなにを思うかわからないから、これからも定点観測続けよう。とりあえず今年の5月は高尾山でトレイルランしたあと高尾山口駅のホームから落ちかけて怪我をした。

あれくらいのランでバテない体ができてるといいなぁ。

家事しない女だけど実家ぐらしの男と付き合うことに一切抵抗がない理由は何か?

この記事を読んで気がついたことがある。 

www.glitty.jp

私は地雷と言われる男に平然と恋をしているような気がする。

夫は30歳で実家暮らしだった。ずっと実家暮らしで、一人暮らし経験はなし。家を出たのは付き合ってた女の子の家に転がり込んだ経験くらいで、家事もできない、お母さんが洗濯をする、料理を作る、部屋の掃除をするといういたれりつくせり男子だった。

しかも、彼は一人っ子の長男。

 

そして、結婚前からずっと「いいな」と一方的に思い続ける男子もずっと実家暮らしだ。しかも長男、地主、農家の息子だ。彼はご飯を自分で炊いたことさえないという。

 

…これは地雷…完全なる結婚相手としては最悪物件ではないか…!

だが、好きになれば、別にそんなことはどうでも良くなるのだ。

 

義両親と同居してみて、全然同居の意味をわかっていなかったな―とは思うが、そもそも「妻」「嫁」の役割を最初から放棄しているから気にならないのではないだろうか。

義両親の同居の何が大変かというと「嫁はその家のルールに則った全ての家事こなすことが当たり前」という不文律のプレッシャーがあるからだと思う。

料理の味付け、好む料理、掃除の仕方、お風呂に入る順番、部屋での過ごし方、スペースの使い方、食器の洗い方、しまい方…生活空間には全て漠然としたルールがある。そのルールを敏感に感じ取り、そのルールを壊さず、家の管理人とならなければならない。そこには研修も、マニュアルもない。元々住んでいる人間のご機嫌という見えないモードチェンジもある。

私は、そのルールで生きることを最初から放棄して、「同じ空間で住む別の世帯」という感覚で過ごすようにしているのだと思う。もちろん、そう簡単に割り切れるわけもなく、ご飯を作ってもらったりしているから、やっぱり無言の「家事をやらねばならない」というプレッシャーを常々感じ、逆に「なぜ義母をこんなに働かせて私はへいぜんとしていられるのか?」と、家事をやらない、大変さに心をすり減らしている。

だが、正直、なんで私がやらなきゃいけないのか全く意味が分からない、思うとどうしても頑張る気が起きない。

なんで好きな人と結婚することが、家の管理人になるのことなのかよくわからない。商売している家で、人件費を抑えるために商いを嫁が行う、というのならば、分かるのだが、なんで自分の好きな人の親という、自立する健康な他人の面倒をなぜ、一緒に住むというだけで、必要以上にみなきゃいけないのか意味がわからないからだ。

好きな人が死ぬほど働いていて、家の一切ができなくて、自分が彼より暇だから、私の生活とオーバーラップする部分、彼が自分でできない部分を私がサポートするのはわかる。でも私が暇な時助けているのに、彼が余裕がある時、私を助けないのは筋が通らない、と思うのだ。

たぶん、「嫁」とか「家制度」という不文律の根強い日本の習慣を私は理解していないのだと思う。だからこそ、私は「実家ぐらし、何が問題なの?家事ができなくても、させればいいじゃん。なんで私がやらなきゃいけないの?自分のことくらい自分でできるようにならないと大人として恥ずかしいよ」と、好きな人を突き放せるのだと思う。

ずっと実家暮らしの男子でも、「家事はできるし、やれるけど、男の面倒を見るのは当然と思っていない。男に家事をしてもらって面倒見てもらうことにも何の抵抗もない」という、私と付き合えるって時点で、地雷はスクリーニングされてるんだろうな〜。

 

 

 

子供ができるとギャグセンスがヤバくなる

SNSは人間の本質がつくづく出る。

自分の子供のクスッと笑ってしまう日常を子育てママがアップされている。

が、申し訳ないがそのギャグセンスはネットにあげるほどじゃない、という客観性を完全に見失っている。

 

子供ができるまで全然日常的なことなんてあげなかった人が、子供が寝返りを打ってレジャーシートに隠れただけでかくれんぼー♪なんて書き込んだり、娘の豪快な寝相と息子の慎ましやかな寝相を比べて男らしい娘女らしい息子♪と書いたりする。

 

いや、別にそれ、わざわざ書き込むほどそんな面白くないからね?ということ。子供のこととなるととたんにギャグセンスがお粗末になるのはあれは一体なんなんだろうか。

 

子育てハイなのか?孤独なのか?なんなのか?

子供と接しているとめちゃくちゃ些細なことが悶絶級に面白い、かわいいと思うことは多々あるから気持ちはわかるのだが…子供ができた途端あの我を忘れて我が子をバシャバシャとってはSNSにあげる病気(パパも結構ヤバいクオリティのやつは少なくない)子ナシの立場としては、子供ができても絶対罹りたくないなと思いつつ、でも、もー絶対我慢できないだろうなーとどこかで覚悟しちゃう私もいる。

特に接点が薄い人の子供(あったこともない、話題に上ったこともない子供)の親の我を忘れた「のろけ写真」はたまに食傷気味になっちゃうよねー

アウェイ

若い女性と、おじさんがいる飲み会に参加してきた。

って書くとなんか卑猥だな。いや、仕事の打ち上げで、プロジェクトを進めていた人々と、そのサポートをしていた女性社員たち、ということだ。

男性の最年少は32歳、最年長は56歳。

女性の最年少は24歳、最年長は33歳。(私)

なんというか、世の中の縮図を見ているようでくらくらした。

 

20代なんて、1年目だろうが、5年目だろうが、まだまだ伸びしろだらけのケツの青いガキだ。それに比べて自分は大人といいたいわけではなく、33歳になっても、自分がまだまだ至らない、成長が足りない、と言う感覚は残っている。ただ、年齢でものを考えることも、従事した年数で仕事の出来不出来を考えなくなっただけだ。

 

同じ年のスチールカメラマンに言われて気がついたのだが、33歳で仕事を続けている女性と言うのはおもったより少ない。

そのカメラマンは「この年で仕事している女って実は一番すくないのでは?」と言っていた。下はいっぱいいる、30代後半、40代くらいから上もそこそこいる。だけど、30代前半というのは、何気に会わない。仕事している人がいっぱいいることは知っているし、友達も子育てママ以上にバリバリ仕事している人もいるのだが、なんかおじさんに紹介される女性は、年齢を聞くと高頻度で「20代の女の子」ばかり。案件の担当者も見事に男ばかりだ。

 

いやいやいや、30代どうした!?
20代のころよりいまのがよっぽど仕事たのしいじゃないかい!?

 

それはともかく、飲み会では30代の男子がいたことで、居心地はそんなに悪くなかったのだが、唯一のオーバー30の私は女子たちと全然距離のとり方がわからなかった。お互い様なところはあるだろうが、どう接していいかわからなかった。なんつーか共通の話題もないし。

あと、皆おっさんにクソ気を使っている。お杓子にわざわざ遠く離れた人のところまでビールピッチャーを持って出張する。おちつかねえから、いちいち気を使わないでくれ。私の立ち位置微妙なんだからさ…!とニコニコしながらイライラ。

 

たぶんそういう文化の会社なんだろうなーとは思うが、ちょっと性分業が強くてちょっと食傷気味に。年下、しかもアラサーじゃない女は、アラサー以降の私には一番どう扱っていいか分からない存在だ。若い女性は年をとった女性を無自覚に、露骨に見下しにかかってくるから(昔の私がそうだった)。

 

まあでも、女の人が無理なく働き続ける文化っていうのを作っていくのが私たち30代なんだろうな〜と思ってしまった。上の世代を見上げている年齢じゃなくなったんだなと思うと同時に。

下の世代に、男性と対等に働くっていうのもそんな無理じゃないんだよ、結婚して子どもできなくても、別に仕事命じゃなくても、仕事楽しんでいいんだよ、って思ってもらいたいもんね。

若い子のセンスが耐えられない

BBAと言われても。

老害と言われても。

私は主張しなくてはならないことがある。

 

10-20代前半の女子のメイクが、マジできつい。ということ。

どうやら、最近のメイクはビビットな配色で、濃いめのものが流行りのようだ。

最近流行ってるよねーと、友達に言われて気がついた。

 

最初違和感に気がついたのは、地方に遊びに行った時、高校生バイトと思わしき女子のメイクを見てだ。

その女の子は、色白で、口は小さく、頬はしもぶくれ、つぶらな瞳をした和風でしとやかな顔をした女の子だった。おぼこい、好感の持てる顔だ。

その子は七五三のように、じの肌の色より少し明るめのファンデーションを少し濃いめになり、頬の中心に丸くチークを塗り、真っ赤なルージュを塗っていた。

 

ああ、お面のおかめって本当に美人だったんだな。なんだか、感心してしまった。おかめが現代に蘇ったらこんな感じなんだろう。

 

それからというもの、若い女性のメイクが目につくように。みんな驚くほど似たようなメイク。ファッションはそこそこ個性がみえるのだが、顔がみんな同じ…。

就活のリクルートスーツ、量産型ザク…。無個性なオシャレ女子たちに、辟易してしまう。

ビビットさ、今風のスタイリッシュさはハーフ顔の女の子の濃いメイクをそのまま移植したところで実現しないんじゃないだろうか?

 

流行を否定するつもりはない。だが、自分の素材とはちゃんと向き合うべきではなかろうか?

 

あなたの薄めの顔なら、あなたの肌のトーンなら、暗めのトーンのピンクのルージュでも華やかさが出て、ワンポイントにもなるだろう。

ビビットな赤でも、もっとワインレッドに近い方が多分映える。

街行く無個性な女子たちを見て、カラーコーディネートを学校の必修科目にした方がいいんじゃないかなと切実に思う。

 

いや、オールデイズすっぴんの私がいうのもなんなんだが、やり方が下手で、かっこいい、だけど難易度の高い流行りに紋切り型でしか対応できずダサくなってる女の子たちのファッションにフラストレーションが溜まってしまう。

 

…いや、私がダサくないか、流行に乗れているかは関係ありません。慣れてないし、我が道を行き過ぎてて、ダサい可能性すらある。あと、私真っ赤な今はやりのルージュを昔付けたかったけど、あまりの似合わなさに挫折したことがあるということがあり、堂々と似合わないのに付けていられる若い子たちがちょっと羨ましいのもある。

たぶんね、けっこう着こなしの難易度が高いんだと思うよ。昨今のファッション、メイクの流行は。

 

人の本能はたぶん変わり続けること

若い女性に話を聞く機会があった。彼女は人間は上に行くことを望むのが本能だと言っていた。

私は正直いってその考えに全然賛同できなかった。もちろん、話を聞く立場である以上、異を唱えることなどできないのだが、つくづく若い人って考えが、平面的だなーと思ってしまった。

その女性は、基本的に世の中を2次元で捉えているフシがあった。

論理的にものを言っているようなのだが、「いや、そんなにこの社会は立体感のない世界ではないと思うんだがなー」と思ってしまった。

「上に行く」というのも、何を上とするか、下とするのか?という定義を彼女は持っているのだろうか?と感じてしまった。

具体例として上げていたのは、経済規模が停滞していると、治安は悪化するが、経済規模が上昇していけば、治安は整理されていくといっていた。

いや、おそらく、その場合の2点の相違点は、停滞と、変動であって、経済規模が上向いた、下降しているという話ではない。

歴史を紐解けば、経済は常に下降と上昇を繰り返している。上向くだけが経済だと思われているのは、おそらく100年単位の話であったり、ヨーロッパ経済圏を中心に考えた場合だ。

また、人は上を目指すといったが、それでは、なぜ細胞の自死が存在するのか?なぜ人の遺伝子には老化というスイッチが入る仕組みがあるのか?なぜ、人の成長は止まるのかそもそも上とは何を指すのか?

本能として上を目指す…上の定義を、大きくなる、成長すると定義した場合、無限に血管を作成し、細胞分裂を繰り返し、決して死ぬことのない細胞は、なぜ「ガン」と呼ばれ宿主に死を与える存在なのか?

と、もちろん、そんな理詰めはしない。人はそれぞれ、自ら立つ位置から、自分のペースで、自らが目指す理想の地へとたどり着くものだ。彼女が今現在見つけた真理に水を差す気にはなれなかった。(というか、そういう矛盾点を着くと、すごい、てんぱりそうな雰囲気があって、そのテンパリが私への攻撃に向きそうな、緊張感があったし)

正直、視野の狭さにちょっとイライラしてしまった。

だが、私も彼女の言っていることには、理解できる点もある。

私自身が信じていることは、万物は常に変わり続けるということだ。…って、これ平家物語から言われていることだったね。

人は常に変わり続けることを望む。たぶん、人が死ぬのはそのためだし、老いるのはそのせいだと思う。

私は、人生とは放物線だと思っている。おそらく、肉体のピークは、25歳前後だろう。その放物線は、かなり高いところから、上方向に投げられたボールが絵描く線で、下降の線が異様に長い。上昇は25年前後、下降は、55年前後なのだろう。その中で、たぶんいちばん人間が無駄なく効率的なのは、下降線の冒頭だろう。上昇時には、重力がかかっている。成長、上向く線を作るために、めちゃくちゃなエネルギーを要する。だが、下降は、重力が引っ張ってくれる。重力が線を描いてくれる。

何言ってるかよくわかんないと思うけど、だから私は、3,40代が最強だと思う、ということ。若い頃と同じような体力もまだあるが、あの頃のように、体を作るためのエネルギー消費もない。

 

…何言ってるんだろうね。まあ、なんだろう、おとなになったな、と思うのは、やっぱり、20代のころは、全部紙の上で考えていた、世の中を2次元でしか見れなかったなということ。お金を稼ぐとか、いい男と結婚するとか、年収が高いほうがいいとか。

会社も、年収が高いとかだけじゃなくて、自分とあってるか否か、そこが実は超絶大事だったりする。

X軸とY軸でしか考えられなかったが、実際の社会はZ軸もある3次元なのだ。

自己満足なことを今日ものたまう私。

私の心が閉じた瞬間

そういえば、最近自分の気持ちに気がついたことがあるので、書いておこうと思う。私が実はきずついていたんじゃないか?と、思うことが1,2週間くらい前にあった。

その中で、あれは私の心が閉じた瞬間だったかもしれないな、と思うことがあった。
ここ最近で、やっと整理ができてきた。

 

尊敬しているとても頭がよく、性についてフランクに話ができる年長の男性に、ある要件で話を聞こうと連絡を取っていたアポが取れず、急きょ呼び出されたことでようやく会えた、ということがあった。

やっと時間を作ってくれた!人がいる場所では話せない、なんて言っていたから、気合を入れて行ってみたら、初対面の人がプラス3人いる、なんだかよくわからない飲み会だった。あんまりまともに話せなかったが、色々必死に話していたが、何か、うまく受け入れられることもなく、噛み合わなくて、その後数日に渡って、ずーっともやもやしていた、ということ。

 

最近、整理できたのはきっかけがある。あまりにもモヤモヤが晴れなかったので、その方と共通の知人に
「あの人って、性的嗜好の開示を求めてこられる方じゃないですか、なんか、その時私、色々聞かれたんですが、何か、うまく開示できなくて、ちょっとアイデンティティが崩れたんですよね」と話してみた。

そしたら相談した知人の方はこう答えてくれた。
「取材相手に無理に、自分の自己開示をする必要はないよ」と。
そこで、初めて、あ、もしかして私、傷ついていたんじゃないかな、と気がついた。

 

…いや、ちょっと意味わからないですね。補足します。

前提として件のその方は性のあらゆることをオープンにされている立場の方だ。また、性の情報開示を促すことが非常に長けている方。
そして、その場が飲みの場であったことで下手に堅物になるわけにもいかない(その方の存在や、関係性を否定しかねないから)
そもそもその場にいた全員が性について軽口を叩く環境にあった。

また、私も立場上、根掘り葉掘り聞くインタビュアー的ポジションのため、聞かれたことについて、誠実に答えるべきという意識が働き、相手の心に入ろうと必死になっていたというのもある。

という感じで、性の話をすることが、その場ではそこまで非常識な状況ではなかったわけです。

 

私は以前、別件でその人と合ったときにも「なんか、噛み合わないな、私が勉強不足だな」と反省していた。性的なことに、私はそこまで強い興味関心があるわけでもないし、アブノーマルなセックスのプレイにも興味があるわけでもない。(対してその方は性のエキスパートのような人)

だが、考えてみれば、その両方がその方にとっては、得意分野であり、牙城そのものだ。そのことにまるで無自覚で、丸腰の私が四方を囲まれていたようなものなのだから、それに気が付かずにいた(たぶん今日まで)。

そして、私は、自分が不快だということに対して若干感受性が低いように思う。必死に性的な話題について行こうとするが、その度に「お前はそんな程度で…」という扱いを受けるのも不快だったのだ。気がついていなかったが。

 

でも、それよりも不快だったのは、彼が私を「女」として見ていることだった。それはその時も漠然と感じていた。
上手く言えないのだが、「女の1人」としてみているのがよくわかった。「セックスできる女」としてまったく見ていないのだが、「男のような格好をしているけど、どうせ君は女だもんね」という目で見ているのをずっと感じていた。

それはいつも、ずっと感じていたのだ。女性を認めているようで、全然女性個体を見ていない。女性を総体でしか見ていない。それが漠然と伝わってくるのだ。だからこそ、非常に警戒はしていたが、それが不快だったということは明確にはわからなかった。

 

と、書いていてわかった。だから、不愉快だったんだ。彼は私を一ミリだって認めていない。女という総体のいち細胞くらいにしか思っていない「こういう男になりたい女っているよね」と、絶対に、男の領域に私をいれようとしないのだ。

 

ただ、私の心が閉じた瞬間があった。その飲みの場は、女性が私含め3人、男が2人。元々お会いしたかった1人の男性以外初対面だ。私は必死に皆さんが気分がいいように話をして、がんばって同じ土壌で話をしようとしていた。来てすぐだが、その場にいた女性3人で盛り上がったものだが、それをみて、その方は、もうひとりの男性に

「ね、女ってすごいでしょ、初対面でこんなに盛り上がれるんだよ」

と、楽しげに話しかけていた。

ああ、やっぱりそうだったんだね。心の中で、私の芯が暗い暗い水の底に沈んでいくのがわかった。あなたはやっぱり、私をなんにも認めていなかったんだね。

外見的には、私は男装をしているようなものだから、その方は、私を尊重するようなことを言ってくださるけど、女性としか見ていないんだよね。もちろん、明確に私は自分が男性だとも女性だとも言わなかったから、仕方がないのかもしれないけど。別に、明確に男性だと主張するのは、私はできないだけで、『女』として扱われるいわれはやっぱりないと思う。

 

その時は、色々と様々な悲しいことを突きつけられて、全然整理ができなかったんだけど、たぶん、あの時、取材者としても、人間としても、男としても、色々とつきつけられて、けっこうズタボロにされたような気が、今している。