子どもがほしいのか、なんなのか?不妊治療①
書いたかどうか、分からないが、妊活を始めた。掻爬手術から、3年、いや4年か。
さすがに、自然妊娠は難しいだろうと、そして年齢的にも妊娠確率が下がりつつある。不妊治療をすべきと考えたわけだ。
で、タイミング法にトライすることに。
婦人科の先生が基礎体温や、生理周期、卵巣の様子を観察して、排卵日というタイミングに、セックスをするというもの。治療法というにはいささか原始的だが、堅実な方法ではある。
先生の見込みでは、うまいこと排卵日にセックスができたようだ。先生が様子を見てくれ、という日に生理は来なかった。
もちろん、普段の生理周期よりも短いその「日」に生理が来なかっただけで、まだ妊娠と決まったわけでもない。だが、いざ妊娠するかも、と思うと恐ろしく不安になる。
これから私の人生はどうなるのだろうか?
仕事はできるのか?産後、フルマラソン走れる体力はいつから回復するのか?トレーニングをする時間はあるのか?
33歳女性のランニング人口はどうやら2000人にも満たないらしい。(ランネットというランニング大会にエントリーできるHPでフルマラソン完走した同年齢女性のランキングをみたら1600人くらいしか全体で登録されていなかった。34歳男性は6000人いた。)
忙しいのだろう。いや、考えてみれば、フルマラソンって40キロ以上走るから、そもそもパイが少なくて当然なのかもしれないが。
一人の人間を育てる覚悟を私はできるのか?そもそもなぜ私には子宮がついているのか?他の人と同じように、女に孕ませられる機能をなぜ私にはついていないのか?
他人事であれば「別に、そんなに考え込まなくても」と思うことがどんどん押し寄せてくる。
しかも、前回の掻爬手術のとき、私は子どもが流れるということに一片の「母性」というものを感じなかった。いや、何を持ってして母性というのか分からないが、「可哀想…!」「私のかわいい赤ちゃんが…!」なんて感覚はなかったのだ。妊娠がわかった時は「安全にお腹の子が生育できるよう、最大限リスクを取り除かねば」と義務感と焦りは覚えたが、流産が決まった時「そうか。簡単にできないもんだな」と少しがっかりしたのと、やっぱり自分は子どもが産めないんじゃないかと不安になったのと、重圧から解放される安心感があった。子どもが云々なんてことは思わなかった。徹頭徹尾、己が事しか考えていなかった。いや、今も。
そんな人間が、母親になる、というのはなかなかおぞましい感覚がある。
「母親」?「親」?
疎んで、哀れで、後ろめたくて、不愉快に社会から持ち上げられていて、だけど結局は庇護の対象でしかない「母親」に、私が?
(と、書いてて気がついたが、母親に対する印象が悪すぎるな私)
が、結局のところ生理がきた。辛い生理痛を引っさげて。
ホッとしたような、また長いトンネルの中から抜け出せないのかと、うんざりしたような、なんとも言えない。
妊娠したらしたで不安、生理になれば生理痛と流れ続ける血液に悩まされる。
どっちも不快でどっちもきつい。
潜在的なFtMゲイの人がウェブ上で「女が妊娠するなんておかしい、全部試験管や人工的保育器で子供が育てばいい」みたいなことを書いていた。なんで?と思ったが、自分には他の人(男性)と同じような生殖機能がないからだ。自分は男に生まれてくるはずなのに、自分の子どもを持とうと思ったら自分が誰かから精子をもらって自分の腹で育てることしかできないからだ。だから、そんなことを書いていたのだ。私も同じだ。人類は皆・・・みたいな書き方だったらよくわからなかったが、自分が女性で、女性としてしか子孫を残せないのがきっと不服なのだろう。
私にもわかる。だが、私が妊娠しなくては、夫と私のハイブリットは産めないのだ。ハイブリットである必要はない。特別養子縁組もあるのだから。だけど、特別養子縁組もそれ相応の覚悟がいる。
人間を育てる、これは、どんなプロジェクトよりも、覚悟がいるのだ。だからこそ、コンドームに穴があいてて妊娠するとか、捨て子でも拾ってくるくらい偶発的な事故的にでも起きない限り、腹を括る勇気を私はやっぱり持てないような気がする。
いや、でも、もうちょっと頑張るよ。不妊治療。
私が古代人だったら…
私が古代人だったら、と、妄想することはないだろうか?私は結構ある。
歯が痛くなった時、私が古代人だったら痛みを取り除く方法がわからなくて痛みに悶えながら死んだかもしれない。
肌がカサカサすぎて顔や手が血だらけになったり、ブツブツになった時、ステロイド剤がなかったら痛くて痒くてなんつーかーもー外に出られない感じの肌になっていたかもしれない。
もしも鏡がない時代だったら、私は近所でも有名な鼻毛マスターになっていたのではないかと思う。(いやもうなってるけども)
人生にもしもはないが、いろんな意味で体をケアできる現代に生まれてよかったなと思う。
もちろん、昔はみんな鼻毛ボーボーだったんだとは思うんだけど、毎日カットしてるのに、毎日鼻毛がこんにちはするこの顔面はやっぱり如何なものかと思う。
確実に延長線上にあるセックスと有酸素運動
最近どっぷりと運動にハマっている。
ランニングのタイムを伸ばしたい、黒帯を目指したいという欲求とともに、筋肉をつけたいという欲望がすごくみなぎる。
鏡を見て、体が出来ていく、筋肉ができていく、己のふくらはぎを見てうっとりする。
自分の太ももの筋肉の膨らみを見て、もっと育てたいとワクワクする。
腹筋はまだまだ見えないけど、いつかシックスパックを…と夢見る。完全なるナルシシズムに心酔する私だが、自分と全然遠くないなと思う人達がいる。
それが、アダルトの世界だ。
セックス大好き、一人H大好き、的な世界観に漂う何とも言えない求道感…
それは、ラン仲間が、トライアスロンに目覚めたり、100キロのウルトラマラソンで己の限界と向き合い、感動のゴールを迎える感じとどうしてもダブって見える。
己の体と向き合い、己の体の限界に挑戦する。それが、生殖器に向くか、運動器にむくかの違いとしか思えない。
昔、M嬢という人のブログで「クリ○リスを肥大させたい♡」ということを目標にクリオナを頑張っている記事を見たことがある。その時は「は?何その願望?」とマジで全く理解できず、私の記憶に深く刻まれていた。
が、今、私が「裸足でハーフマラソン走れるくらい足の裏の皮厚くしたい♡」と思う願望と同質のものに思ったことで、ようやくそのM嬢のストイックさを理解することができてきた。
・・・いや、できねえよ。ていうか私の願望も気持ち悪いな。
それにしても、己の限界を知りたいという飽くなき冒険心が生殖器に向くか、運動器に向くかに、性差はどこまであるのだろうか?運動の分野では圧倒的に男性の方が多いが、それは、時間的なもの、経済的なものがあるだろう。有酸素運動、といっても、スポーツ用品はどいつもこいつも値が張る。時間もそれなりに取られる。女性が参入しにくいものはあるだろう。
アダルトはどうなのだろうか?正直全然わからないが…。
でも、性も運動も、人間の根本的な欲求なのだと思う。
私は性よりも圧倒的に運動の方が楽しいのだが、それは、性への嫌悪感があるからだろう。…いや、でも、やっぱり、運動すると楽しいよね。ガンガン筋肉できるしさ!可動域広がるしさ!
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と信じている。
定点観測は大事かもしれない
最近、もうだるくてだるくて仕方がない。
家の階段が辛い、夜家に帰ったらなにもする気にならない。なんなんだ、取り憑かれてるのか?と、思ったら、一年前の同じ時期にほぼ同じこと呟いてた。はてブの一年前の投稿のお知らせを見て気がついた。
リンク貼り直しました
運動したいのだが、どうもからだの調子が良くなく(運動不足で体がこっているだけかもしれないが)どうにもだるい。
やらなきゃいけないこと、落ち込むこと、そんな毎日に追われ、気がついたら連休中は、1日か、2日しか休みがない。
仕事はしていたようだが、グッタリしてる。
ということは、たぶんだが、単純にまだ暑さなど気候の変化に耐えられず体が悲鳴をあげているのが、今の季節、5月なのでは?という気がしてきた。
たぶん、毎年なんとなく具合が悪く、なんとなく、だるっ!と思っているのだろう。
しかし、去年に比べると私は確実に体力をつけているのかも。山登り二回行ってるし。よし、体力つけよう。
あと、LGBT当事者意識についても、なかなか興味深い発見をした。
3年前の投稿。
人間ってやつは絶対先天的要素と後天的要素で出来ているものだろう。だから、今後私は再び性の不一致を再燃させてガッツリレズになったり、FTMになる可能性だってゼロではないとは思う。
FTMそのものに性的指向が関係ないことを2年前の私は知らなかった。(男性だという性自認を持っている人は女を好きになる人だけだと思ってた)
乳房を切り落としたい気持ちとか、ちんこがほしい気持ちとか、男の人に、男として扱ってもらえない屈辱感とか…。まあ、私はそこは(しぶしぶ)折り合いがついたので、私はただのミソジニー(女性嫌悪)が強烈なだけなんだと思いますけどね。
今読み返すと、全然納得してないんだなぁと素直に思えるけど、この時は女として生きるしかないと、思っていた。いや、今も思ってるけど、でも、自分の中に湧き上がる、違和感をなかったことにしなくていい、無理して女のふりをして生きなくても良いのだがと思えるようになった。私は勘違い野郎じゃないし、トランスジェンダーは、自分と同じように悩む人で、私は彼らに対して無理解な敵対者ではない。自分の存在を否定して、貶めなくていい。と思えるようになったのはやっぱり心が健康になったからかもしれない。
また将来読み返していた時はなにを思うかわからないから、これからも定点観測続けよう。とりあえず今年の5月は高尾山でトレイルランしたあと高尾山口駅のホームから落ちかけて怪我をした。
あれくらいのランでバテない体ができてるといいなぁ。
家事しない女だけど実家ぐらしの男と付き合うことに一切抵抗がない理由は何か?
この記事を読んで気がついたことがある。
私は地雷と言われる男に平然と恋をしているような気がする。
夫は30歳で実家暮らしだった。ずっと実家暮らしで、一人暮らし経験はなし。家を出たのは付き合ってた女の子の家に転がり込んだ経験くらいで、家事もできない、お母さんが洗濯をする、料理を作る、部屋の掃除をするといういたれりつくせり男子だった。
しかも、彼は一人っ子の長男。
そして、結婚前からずっと「いいな」と一方的に思い続ける男子もずっと実家暮らしだ。しかも長男、地主、農家の息子だ。彼はご飯を自分で炊いたことさえないという。
…これは地雷…完全なる結婚相手としては最悪物件ではないか…!
だが、好きになれば、別にそんなことはどうでも良くなるのだ。
義両親と同居してみて、全然同居の意味をわかっていなかったな―とは思うが、そもそも「妻」「嫁」の役割を最初から放棄しているから気にならないのではないだろうか。
義両親の同居の何が大変かというと「嫁はその家のルールに則った全ての家事こなすことが当たり前」という不文律のプレッシャーがあるからだと思う。
料理の味付け、好む料理、掃除の仕方、お風呂に入る順番、部屋での過ごし方、スペースの使い方、食器の洗い方、しまい方…生活空間には全て漠然としたルールがある。そのルールを敏感に感じ取り、そのルールを壊さず、家の管理人とならなければならない。そこには研修も、マニュアルもない。元々住んでいる人間のご機嫌という見えないモードチェンジもある。
私は、そのルールで生きることを最初から放棄して、「同じ空間で住む別の世帯」という感覚で過ごすようにしているのだと思う。もちろん、そう簡単に割り切れるわけもなく、ご飯を作ってもらったりしているから、やっぱり無言の「家事をやらねばならない」というプレッシャーを常々感じ、逆に「なぜ義母をこんなに働かせて私はへいぜんとしていられるのか?」と、家事をやらない、大変さに心をすり減らしている。
だが、正直、なんで私がやらなきゃいけないのか全く意味が分からない、思うとどうしても頑張る気が起きない。
なんで好きな人と結婚することが、家の管理人になるのことなのかよくわからない。商売している家で、人件費を抑えるために商いを嫁が行う、というのならば、分かるのだが、なんで自分の好きな人の親という、自立する健康な他人の面倒をなぜ、一緒に住むというだけで、必要以上にみなきゃいけないのか意味がわからないからだ。
好きな人が死ぬほど働いていて、家の一切ができなくて、自分が彼より暇だから、私の生活とオーバーラップする部分、彼が自分でできない部分を私がサポートするのはわかる。でも私が暇な時助けているのに、彼が余裕がある時、私を助けないのは筋が通らない、と思うのだ。
たぶん、「嫁」とか「家制度」という不文律の根強い日本の習慣を私は理解していないのだと思う。だからこそ、私は「実家ぐらし、何が問題なの?家事ができなくても、させればいいじゃん。なんで私がやらなきゃいけないの?自分のことくらい自分でできるようにならないと大人として恥ずかしいよ」と、好きな人を突き放せるのだと思う。
ずっと実家暮らしの男子でも、「家事はできるし、やれるけど、男の面倒を見るのは当然と思っていない。男に家事をしてもらって面倒見てもらうことにも何の抵抗もない」という、私と付き合えるって時点で、地雷はスクリーニングされてるんだろうな〜。
子供ができるとギャグセンスがヤバくなる
SNSは人間の本質がつくづく出る。
自分の子供のクスッと笑ってしまう日常を子育てママがアップされている。
が、申し訳ないがそのギャグセンスはネットにあげるほどじゃない、という客観性を完全に見失っている。
子供ができるまで全然日常的なことなんてあげなかった人が、子供が寝返りを打ってレジャーシートに隠れただけでかくれんぼー♪なんて書き込んだり、娘の豪快な寝相と息子の慎ましやかな寝相を比べて男らしい娘女らしい息子♪と書いたりする。
いや、別にそれ、わざわざ書き込むほどそんな面白くないからね?ということ。子供のこととなるととたんにギャグセンスがお粗末になるのはあれは一体なんなんだろうか。
子育てハイなのか?孤独なのか?なんなのか?
子供と接しているとめちゃくちゃ些細なことが悶絶級に面白い、かわいいと思うことは多々あるから気持ちはわかるのだが…子供ができた途端あの我を忘れて我が子をバシャバシャとってはSNSにあげる病気(パパも結構ヤバいクオリティのやつは少なくない)子ナシの立場としては、子供ができても絶対罹りたくないなと思いつつ、でも、もー絶対我慢できないだろうなーとどこかで覚悟しちゃう私もいる。
特に接点が薄い人の子供(あったこともない、話題に上ったこともない子供)の親の我を忘れた「のろけ写真」はたまに食傷気味になっちゃうよねー
アウェイ
若い女性と、おじさんがいる飲み会に参加してきた。
って書くとなんか卑猥だな。いや、仕事の打ち上げで、プロジェクトを進めていた人々と、そのサポートをしていた女性社員たち、ということだ。
男性の最年少は32歳、最年長は56歳。
女性の最年少は24歳、最年長は33歳。(私)
なんというか、世の中の縮図を見ているようでくらくらした。
20代なんて、1年目だろうが、5年目だろうが、まだまだ伸びしろだらけのケツの青いガキだ。それに比べて自分は大人といいたいわけではなく、33歳になっても、自分がまだまだ至らない、成長が足りない、と言う感覚は残っている。ただ、年齢でものを考えることも、従事した年数で仕事の出来不出来を考えなくなっただけだ。
同じ年のスチールカメラマンに言われて気がついたのだが、33歳で仕事を続けている女性と言うのはおもったより少ない。
そのカメラマンは「この年で仕事している女って実は一番すくないのでは?」と言っていた。下はいっぱいいる、30代後半、40代くらいから上もそこそこいる。だけど、30代前半というのは、何気に会わない。仕事している人がいっぱいいることは知っているし、友達も子育てママ以上にバリバリ仕事している人もいるのだが、なんかおじさんに紹介される女性は、年齢を聞くと高頻度で「20代の女の子」ばかり。案件の担当者も見事に男ばかりだ。
いやいやいや、30代どうした!?
20代のころよりいまのがよっぽど仕事たのしいじゃないかい!?
それはともかく、飲み会では30代の男子がいたことで、居心地はそんなに悪くなかったのだが、唯一のオーバー30の私は女子たちと全然距離のとり方がわからなかった。お互い様なところはあるだろうが、どう接していいかわからなかった。なんつーか共通の話題もないし。
あと、皆おっさんにクソ気を使っている。お杓子にわざわざ遠く離れた人のところまでビールピッチャーを持って出張する。おちつかねえから、いちいち気を使わないでくれ。私の立ち位置微妙なんだからさ…!とニコニコしながらイライラ。
たぶんそういう文化の会社なんだろうなーとは思うが、ちょっと性分業が強くてちょっと食傷気味に。年下、しかもアラサーじゃない女は、アラサー以降の私には一番どう扱っていいか分からない存在だ。若い女性は年をとった女性を無自覚に、露骨に見下しにかかってくるから(昔の私がそうだった)。
まあでも、女の人が無理なく働き続ける文化っていうのを作っていくのが私たち30代なんだろうな〜と思ってしまった。上の世代を見上げている年齢じゃなくなったんだなと思うと同時に。
下の世代に、男性と対等に働くっていうのもそんな無理じゃないんだよ、結婚して子どもできなくても、別に仕事命じゃなくても、仕事楽しんでいいんだよ、って思ってもらいたいもんね。