メンタルヘルス低気圧
憂鬱がひどい。
ここ数日のメンタルヘルスがたぶんヤバい。
ツイッターでネガティブなことばかりつぶやいている。30代としていかがなものか、と思わずにはいられないレベル。
しかも、ちょっとうっかり失敗をしてしまって。
自分自身のために整理をすると、
私がボランティアで手伝っている大きなプロジェクトがあって、そのチームの主力は学生さん。私はリズム感のよくないそのチーム(学業の合間だし学生さんたちもボランティアだから仕方がない)のやり方につい、やきもきしてしまって、口を出しまくった。
私自身がほぼコミットしていないその場限りのボランティアなので、あんまり口を出せないのを分かっていながら、すげー口出しをしまくってしまっていた。
基本的には、そこの世界のことは門外漢なのに、つい調子にのって仕切りだしてしまい(しかもその仕切りが正しいかもよくわからないのに)、その世界的に「いや、それはないでしょー」という提案をしてしまった。あくまで提案なので、痛手はないのだが、本業の人たちが見ていてヒヤヒヤする内容だったようだ。
なお、これらはすべてオンライン上のやり取りだが、見かねて「そういうメッセ、送らないでください」と電話がかかってきた。
ダメの熱量がよくわからないが、私は「ああああー」と思った。彼らは基本的に圧倒的に人手が足りず、表立ってもう手を出さないでください、何もやらないでください、とは言わない。そもそもそんな具体的な指示をする余裕がないのだが、それでも電話をしてきたってことはけっこうなやらかしに見えたはずだ。
あなたにそこまで求めていないのだよ、という、声が聞こえてきそうな勢いだった。(というか自覚もある、むしろどこまで口出しして許されるかわからなかったから、注意して我に返った部分もある)
裏で何を言われているか…いや、言われていないとは思うけど、私は「めんどくさい」ヤツ、カテゴリーに入ってしまったかも、と思うと、気が気ではなかった。
だって、こっちはそこそこ身銭切って手伝っているのに、だよ?自分の分別をわきまえなかったとはいえ、そうやって「めんどくさい扱い」されるのはやっぱりきついし、落ち込む。
あと、なんか良かれと思ってやった結果、失敗っていうのもさ、まじで凹む。じゃあ、最初から何にもしないほうがよかったじゃん、何にもしなかったらイタズラに評価をさげなかったのに、馬鹿なの?って気持ちになる。
ああ、でも、考えてみたら私なんで自ら身銭切って、自分の労働力ただ売りして、彼らの手伝いをして、しかも彼らの足をひっぱってる扱いをされているんだろうな?
ただのバカじゃん、私。考えてみれば。釈然としない気持ちがずっとある。軽く見られているという気持ちが。
もう落ち込むのは辞めた方がいいとは思いながら、なぜこんなに落ち込むのかよくわからない。
自分の中で、自分を責める声が鳴り止まない。
自己嫌悪と、自己犠牲、なんか、よく解かんないけど、私一体何なんだろうか?
でも、真面目な話、私は自分を安売りするのはやめたほうがいいだろうな。本当に。
単価をガンガンに下げて売り渡すから、買い叩いていいと思われちゃうわけで。はぁ。商売っ気がないんだから、もうちょっと考えないといけないな。こんな一銭にもならない仕事(ボランティア)をなぜ私は喜々としてやっちゃうんだろうな〜。
と、無軌道にもやもやした気持ちを書き綴ったら少し落ち着いた・・・。
そこまでのことじゃない、と頭の片隅では気がついているんだけど、ふとしたきっかけで自分を自分で責め始めてしまって、声に出して自分を罵声してしまう。
「最悪だ―」「マジでないわ―」「どうしてお前はいつもそうなんだ」「だからダメなんだ」「もーいやだ」「もーなにもしたくない」「頭が悪すぎる」とかとかとか。人目は気にするけど、やっぱり止まらない。
たぶんね、もうちょっと病みが進行したら私も電車の中でつぶつぶ罵声を大声で発するような気がするんだよね。そういうことなのじゃないかな、きっと、精神を病むというのは。いや、何の話だよって感じだけど。
あーちょっとすっきりした。
なんかこの手の話の愚痴は誰にも言いにくいものがある。自分の恥ずかしいうっかりを伝えなきゃいけないし、たぶん聞いた人は「あー・・・それはやっちゃダメなやつでしょ―」ってなるし。結果的には「え、そんなこと気にしすぎじゃない?」とは言ってくれたとしても、「気にするなっていいつつ、お前さっき私のうっかりを「ないわー」って言ったやないかい」って気分になるのは目に見えているから言いたくない。あと、私は誰か他人を責めるのが得意でもないから、基本的に自分が全部悪い口調でしゃべっちゃうし。あとたぶん感情が溢れ出して泣くし。で、泣いたら泣いたことで聞き手はテンパって「事実としてそれほど気に病むことじゃない」と冷静にジャッジしてくれなくて「もう泣くなよ―」と思う気持ちで接するから、逆に気を使うんだわ。
私ね、こう見えて(?)相手の気持ちに立ってものを考える人間だから、さ!
頭の中で、ぐっちゃぐちゃになっていて、自分ではなにがなんだかよくわからなかったんだけど、文字に書きなぐったら、気持ちが少し整理が付いた。別に強烈に悪いことをしているわけでもないし、強烈に人生の汚点となる失敗をしているわけでもないし…そもそもノーギャラだし。ギャラももらっていないのに、真面目に頑張ってしまう私はいかがなものかと思うけど。その辺は今後考えねばならない私の仕事スタイルとも関わってくるわけで。
ああ、仕事意識でやってるから落ち込んでるんだな。いや、どうかなー逆にプライベートの人間関係だから落ち込むのか、うーむ。何はともあれ、私繊細すぎてまじでいやだ。
さて、そろそろ仕事しないとな。
生理用品雑記①布ナプキン編
生理用品は今急激に多様化しているような気がしないだろうか?
私は新しもの好きの気があるので、新しく知った生理用品は結構試す。だってさ、紙ナプキンってつらいじゃん?かゆいじゃん?蒸れるじゃん?そんな不快感がなくなる、というのであれば、試したくなるじゃん?
トライアル①布ナプキン
まず試したのが 布ナプキン。
子宮がひえるとか、あたためるとかそんなことは、つけた印象としても特になかった。ただ肌のかゆみがなんとかなるなら!そんなわらをもすがる思いと、生理用品買うのが煩わしくなっていた時期だったからだ。
布ナプキンのメリット
- むれにくい
- 出血量がわかる
- 繰り返し使えてお財布に優しい
- ゴミが減る
メリット1 むれにくい
もちろん、長時間つけていたり、表面の速乾性のない布だからこそ、血液がたれた後はけっこうヌルヌルする、というのは、あるが、風通しはいいのだ。
ビニールを肌に当てている不快感というものはない。
また結果的に、という部分はあるのだが、長時間使っていると、紙ナプキンに比べ、漏れ出てくるのでまめにかえなくてはならず、結果的に肌へのダメージが少ない気がする。
毎回生理後は股間周りが痒くなる肌弱い人にはおすすめだ。
メリット2 出血量がわかる
また、2点目にメリットしてあげた出血量だが、手洗いをしなくてはならない。よって、自分がどれだけの血を流しているのか、如実にわかるわけだ。これは、自分の体を知るいいチャンスであると私は思い、メリットと考えている。
メリット3 繰り返し使えてお財布に優しい
また、繰り返し使うことができるので、収納スペースの場所が、紙ナプキンよりも場所を取らなくて住むのはメリットだろう。
いちいちお店に買いに行く心配をしなくていい、というのも、お財布にも優しいし、買い忘れがちなうっかりさんにはメリットだろう。
メリット4 ゴミが減る
また、ゴミを減らすことが出来てエコ、という側面もある。ただ、その分たっぷり水洗いするので、本当にエコなのか?とも思うが、「エコ」という考えを突き詰めていくと、「人間ってそもそも生きている事自体エコじゃない」と人類の存在そのものへの疑問になりかねないので、ゴミを減らせるということは「臭いものをゴミの日まで保管しなくて済む」という衛生的なメリットがある。
布ナプキンのデメリット
- 血液量が多いとすぐ漏れる
- 血液量が少ないとよれる
- ゴワゴワする(がさばる)
- 手洗いなどの一手間が必要
- 出先で取替が面倒
デメリット1 血液量が多いとすぐ漏れる
多い日、油断をしていたり、紙ナプキン多い日用などの要領で使うと、股間周りが血の海になることがある。おそらく、多少の経験が必要だと思うので、使い始めは家でトライされることをおすすめする。
デメリット2 血液量が少ないとよれる
これもデメリット1との関連だが逆に、少ないから布ナプキンで快適に、と思っていると、それはそれで落とし穴がった。血液の水分で、ある程度重さと湿度で下着と密着するようで、血液量や水分量がたりないと、布ナプキンは縦横無尽に動き出す。私が多動なせいもあるかもしれないが、お尻の方へ大移動することもままある。
アクティブな行動が多く(といっても散歩程度)血液量が少ない時は、固定されないタイプの使用は避けたほうがいいと感じる。
デメリット3 ゴワゴワする(がさばる)
おしゃれファッションを生理中にできる強者はなかなかいないのかもしれないが、布ナプキンはかなりがさばる。ごわごわする。ジーパン愛用の私でも、重装備(生理2日目)は股間が伸びてるんじゃないか、へんなフォルムになっているんじゃないか、と少し心配になったほどだ。
デメリット4 手洗いなどの一手間が必要
購入してもらえばわかるが、布ナプキンは、洗濯機に入れることをあまり推奨していないようだ。だが、手洗いを日常にする現代人は多くないのではないか。私も、最初はマニュアル通りにやっていたが、現在は洗濯機を利用している。だが、洗濯機に入れる、にしても、たっぷり含んだ血液をなんとかせねばならない。まずは手洗い、そのあとセスキ炭酸ソーダに半日〜1日浸してから網に入れて洗濯機、という流れだ。…手間多っ!セスキ炭酸ソーダに浸さなくても、洗濯機を毎晩回せるわけではない(私は)。だが血液汚れを放置すると固まってしまうので液体にはひたすわけで、じゃあ、セスキつかっとく?という感じ。
デメリット5 出先で取替が面倒
最大のデメリットと言っても過言ではない。取説などによると、専用の袋に入れて(ジップロック的な密閉できる袋)、布ナプキンに水スプレーにつけて、乾燥させないようにして、保管しましょう!と書いてあった。おいおい、なんでそんなクソめんどくさいことしないと行けないんだ?と。思って、水スプレーは持ち歩かなかった。だが、袋に入れて持ち歩くことの不快感も凄まじい。何が悲しくて、血まみれの布を持ち歩かないといけないのか?うっかり誰かにカバンの中を見られたらちょっとしたスリラーだ(ちなみに専用の袋は中が見えない仕様ではあるが)。臭みがもらえるかもしれないし、あと、やっぱり衛生的にいかがなものか?カバン全体を虫干ししたくなる。
快適さを求めるなら・・・肌弱い人におすすめ
正直言うと、デメリットの方が多い。エコロジストやポリシーがある人ならば、布ナプキンはそれなりの「やりがい」を感じさせてくれるのだが、「いかに快適か?」を求める人には、あまりおすすめしにくい。
ただ肌荒が気になる人にはぜひ一度使ってみてもらいたいとは思う。私も夏場など汗を多くかく時期、家では布ナプキンを使う。また、ちょっとしたおでかけくらいでも布ナプキンでも対応できるだろう。
やっぱり、後発アイテムである紙ナプキンはかなりユースフルだなとは思う。
気が向いたら次は、タンポンや、生理カップについても書いていきたい。
子供時代、私の性的アイデンティティを振り返る②
書き忘れたことを書く。
子供の頃、小学校4年くらいからか、私は女性を好きになる努力を始めていた。
それはなぜか、簡単な話で、男は女を好きになるものだからだ。それと、当時、私は巨乳ハンターという漫画にハマっていて、巨乳ハンターになりたかったような気もする。
高校生の恭塚まさ子は容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。
だが好きな男子に告白したら、「貧乳である」の一点だけでふられてしまう。
まさ子は巨乳の女性に対して逆恨みし、あやしげなコスチュームと顔を隠すゴーグルを自作。
巨乳の女子達の魚拓ならぬパイ拓をとるため、胸に肉まんを詰めて「D-cup」と書かれたコスチュームを着用し、巨乳ハンターと名乗る。
(私は肥満児ゆえ貧乳でもなかったし、巨乳に嫉妬もしていなかったし、よくわからんのだが、なぞのあの世界観にどっぷりハマっていたのだ。トップをねらえ!(ガイナックスの美少女が宇宙空間で体操服で訓練を受けて巨大ロボットを操って戦う話)も好きだったから、戦う美少女がすきだったのかもしれん。しかし、ゴーストスイーパー美神といい、巨乳ハンターといい、強い女性巨乳の女性が多い時代だったのだな・・・。)
女の子のおっぱいに興味も持ったが、実際はみんな全然漫画やアニメのようにいやらしくないし、豊かな体つきもしていない(まあ、子供だからね!)。だが、だからといって、自分の体をみたってむしろ関取のようだ。銭湯で大人たちをみても美しい体なんてありゃしない。
仲のいい女友達のこと、本当は好きなんじゃないかと思ったりもしてみたのだが、なんか違う。
(ちなみに、初恋の相手を探したり、かっこいい男の子をストーカーしたり、おっさんのようなキモい肥満児は気持ち悪い女子としての青春を謳歌していた)
アニメキャラクターの女の子たちには興奮できるのに、なぜだろう、女にからきし興味が湧かん。「好き」と思えるのは男子ばかりだった。
常々、自分の中で「男なのではないか?」という自問自答を繰り返していた私は、女をすきになれない、バイセクシャルにすらなれないことに悲しみを覚えていた。女を抱く・・・イメージするだけでも気持ち悪かった。私はレズビアン疑惑なんかもあったのだが(すぐ女子に抱きついていたし、巨乳ハンターの真似して胸揉んでたから)
「レズビアンになろうと努力していた。レズビアンになれなくて悩んでいる」
とはたぶん誰も思っていなかっただろう。もちろん、当然、自分として正しい姿は女を好きになることなので、男なんて好きじゃねーよ!感を醸し出していた。だけどすごい男子が好き!ああ、もうむっつりすぎてまじで気持ち悪かった私。
結局私は女子を好きになれることもないまま、おとなになっていく。
私が性適合手術に興味が無いのは、そこの要素が大きい。男性になりたい、といっても、手術をしたことで、男になんてなれないわけだ。もちろん、イチモツを手に入れることはできるだろう。だが私にとってもっとも重要なのは「そのチンコはちゃんと経ちますか?ちゃんと射精ができますか?」という1点。いやまあ、おしっこがちゃんと出せるのかも問題だ。
とにかく、頻尿だったり脱腸だったりと泌尿器科的にそもそも貧弱な私は、性器をいじる勇気はなかなかもてない。何に変えても性器を変えたいと思えないのは、やはり、性別違和がただ単に弱い可能性もある。泌尿器系のトラブルはたぶんすごい惨めだと思う。
ともかく、ほしいのは誰かや自分が見て男性だと認識できる性器ではなく、男性として機能する男性器。女の子に挿入ができない、男の子にも挿入ができない、そんなちんちんは求めていないのだ。
子供の頃から一貫しているのだが、ストレスなく、安全に、セックスをしたいわけで。そう考えると、自らの臓器に手をかけるのはやはり、抵抗があるし、女性の体であるという恥ずかしさというか、後ろめたさみたいなものはあるが、なんとか性行為は出来ている。
最近もしかしたら、と思うのは男性ホルモンを打てば、女性が好きになれるかもしれないなということだ。人を好きなるのに、性別なんて関係ないし、身体さえなければ女性のことも好きになっているかもしれない。なにより、私は女性の自分の体が嫌いだから、同族嫌悪的に女が醜くみえるだけかもしれない。
。。。と思ったけど、まあ、治療してみないとわからないよねー。そんなの。
それともう一つ、最近、気がついたのは、私は、性行為のとき、なるべくしゃべらない。言葉責めも嫌いだし、鏡にうつる自分の姿も好きじゃない。ハメ撮りなんて言語道断。なるべく、この体を忘れて、信頼がない相手とは、セックスすることへの恐怖心が強い。なぜ皆誰とでも軽々とできるのか?意味がわからないと常々思っている。あと、女性は、露出の多い服を着たりして男性を誘惑するようなことをして楽しむ。それも理解できなかった。恥ずかしくないのかな?と。
やっぱり女であることへの後ろめたさと恥ずかしさがあるのかもしれないな。
いつか、私も女をファックして、男と酒でも飲みながらファックした女の数とか競い合いたいなと思うけど、ファックできるちんちんもねえし、女をトロフィー扱いする厚かましさも、酒を分解できる肝臓もねえ。あーあ。どれとったって、結局、男になんてなれやしないわけで。しかも仕事もできないから、バリバリも働けないよ。あーあ。
子供時代の私の性的アイデンティティを振り返る
子供時代の私は、たぶん、トランスジェンダーのそれに匹敵するものがあるんだろうなと思う。
ただ、それをわんぱく、おてんば、男勝りの女の子の枠以上にはならないと思えてならな。
ちょっと色々思い出してみようと思う。
子供の頃、とにかく身体を動かすのが大好きだった。幼稚園のころ、園庭で、逆上がりやバク転など、自分の体の限界に挑戦するのが好きだった。親に連れられていったスキーも怖がらずにどんどん滑っていた。
男友達と自転車レースやサッカーにも興じていた。
ターザンに憧れた私は、カーテンでターザンごっこをしようとしてカーテンレールを壊したり。
だからといって、女子と遊んでいなかったわけでもない。お絵かきは大好きだったし、人形遊びもしていた。シルバニアファミリーやリカちゃん人形の、なんとも言えない可愛さにどこか恐怖を覚えていたようにも思うのだが、それでもおもちゃに、ごっこ遊びに、女友達と遊んでいた。
アニメはビックリマンや、ワタル、NG騎士ラムネ40など、世界を救うヒーローものに夢中になった記憶がある。戦隊モノも好きで、よく見ていた。
だが、だからといって少女漫画が嫌いだったかというと、そうとも言い切れなかった。女性キャラクターに共感できないかというと、そうでもなかった。ゴーストスイーパー美神という、ライトセーバーのような武器で、妖怪幽霊をぶった切っていくボディコン美女に夢中になったし、自分自身を投影するような憧れとともに、足蹴にされて罵られたいという憧れも抱いていた。
クリーミーマミが大好きで、アイドルになりたいとも思っていた。
幼稚園の頃の将来の夢は、お花屋さん、アイドル、ニュースキャスター、戦隊モノのヒーロー、なんかもう色々ぐちゃぐちゃだ。皆がいいなーと思うものに素直に憧れた。だけど、戦隊モノへのあこがれは、すごい強かった。なれないことはわかっていたけど、あんなふうに宙を飛んでみたい、かっこよく見栄を切ってみたい、世界を救いたいと思っていた。(当時は女の人もヒーローキャラにいたしね)
男性的なもの、女性的なもの、どちらも等しく愛していたように思うのだ。だからこそまわりから「生まれてくるまで男だと思ってた」とか「4人目は男の子」(4人兄弟の末っ子)と言われながらも女の子として見られてきたのだと思う。
だが、女扱いされることは、子供ながらに好きじゃなかった。
私は幼稚園の頃二人称が「あなた」だった。正直、人の名前を覚えるのが苦手だったし、思い出すのも苦手だったんで、とっさに「あなたさ」と言っていたのだ。
それで「夫婦かよ!」「嫁かよ!」的なことを指摘された記憶がある。それが無償に恥ずかしくて「お前」や「あいつ」など、粗野な言葉を使うようになっていった記憶がある。
あるきかたも、私はどうもくねくね腰?尻?をふって歩いていたらしいのだが、「くねくねしてて気持ち悪い」というようなことがあった。私はくねくねしないであるこうとして、結果的におっさんみたいな歩き方に。
女みたい、と言われるのが、嫌で仕方がなかったように思う。いや、こうやって文字に起こしてみると成熟した女性扱いをされるのがいやだったのかもしれない。
もう少し大きくなると、身体がドンドン女性の体になっていった。
たぶん小3の頃だと思うのだが、テレビでみた両性具有の人を見て「私、それなんじゃないか?」と思ったことがある。うまくいえないのだが、ちんちんが生えていないことに、立ちションができないことに違和感があったからだ。
だが。小4の時、早くも生理になってしまった。親は赤飯を炊いてくれたが、私は侮辱されたような気持ちにしかならなかった。ただただ、自分の体がおぞましかった。
だから、学校では誰にもそんなこと誰にもいえなかった。「生理になった?」とか、女子同士で話すのだが、私は頑なに「まだー」と言い続けた。たぶん誰もが生理になり「生理になった?」なんて効かなくなるまで私は自分が生理にすでになっていることを隠し続けた。
だが、高校生ぐらいのとき、生理であることを押し隠すのは、かっこ悪い、男らしくないんじゃないかと思い、生理用の入った袋をブンブン振り回して歩いてたら、どうかと思うとドン引きされたが。
時を同じくして、胸が大きくなってきた。胸が大きくなるのがいやで必死で胸をつぶそうとしていた。叩いたり。刺激のせいやもともとの肌の弱さが相まって、痒みも増したのか、私は自分の胸をかきむしった。かきむしったり、叩いた所で、胸がなくなることなんてないのはわかっていたけど、かゆみには耐えられず、いつも血だらけだった。
ブラジャーをつけることも拒絶し続けた。ブラジャーは女の象徴、あんなものはつけられないと。だが、そんな複雑な胸中の第二次性徴期の肥満女児を見かねた女性の先生が、ブラを付けなさいと言われたときは屈辱感で死ぬかと思った。
中学、高校では、制服を着た。正直いうと、制服は嫌いではなかった。服を選ぶ煩わしさから開放されて最高だなと思った。ただ、絶望的に女子制服が似合わなかった。中学はセーラー服だったが私は、肥満児で、男顔で、毛深く、体格もよくしかもメンタリティが男と来ているから、まじで、ちいさい、小太りの口の周りうぶげの髭面、眉毛繋がってる手足の毛、頭の毛ボーボーのおっさんが制服を着ているみたいな残念な仕上がりになるわけですよ。
高校はブレザーだが、肩幅もあるから、どう考えても女装にしかみえなかった。どう考えても、男子制服の方が似合うと思っていたけれど、そんな選択肢はないと思っていたので、着たいなんておもったことはなかった。ただ、肥満児で、男らしい自分の不格好さが恥ずかしかっただけ。(正直言えば、痩せれば女の格好が似合うとも思っていた。だが、実際大人になって痩せたものの、やっぱり女性の格好は女装感がでてしまい、かっこ悪い。サイズの問題もあるのだろうが(やせても筋骨の太さは変わらない)女性らしい格好は憧れはあるが、どうにも自分に似合うと思えないものがある)
しかも、さらに自体をより複雑に(というか外見を見にくく)させていたのは、ビジュアル系バンドにはまり、完全に厨二病になっていたのだ。清春になりたい、清春の嫁になりたい、その一心だった。(文字にしてみると2つの相反する願望があるが、その時は矛盾に気が付かなった)
写真のポーズは、片目を前髪で隠し、太い身体を隠すように斜めのポーズを取り、カメラをガンつける。これがオレの全力かっこいいだ・・・!と思って疑わなかった。私のかっこよくない?と、ガンつけた自撮りを友達に送りつけて「あ、あ、う、うーん・・・大丈夫?」というリアクションしか来なかったりしていた。
その後、おとなになって、10代の写真が本当にそんな痛い中二病な写真しか残っていなくて、マジで恐れおののいた。
もちろん、ギターの練習もしたが、子供の頃、ピアノをやっていたせいか、どうしてもギターの弦をうまく抑えられず、挫折した。(飽きたとも言う)
制服さえ着なければ、声さえ出さなければ、男子にみられた。それがなんともいえず嬉しかった。
人並みに電車が好きで、人並みに小林よしのりにハマり、人並みにナチスにハマり、人並みに愛読書SAPIO、諸君!と順調にイタいオタク男子のメンタリティを隠し持ちながら、東京へ。
大学生になり、そんな自分はさすがに痛すぎると封印した。その後はモテたい一心で必死で女子力を磨き、挫折し続けた負け犬人生を送る。
30歳で「中二病だったあの頃、あれが俺たちの本性だから、あのときのリビドーを大切にしていい」と、人に言われるまで、私は自分の思いをひた隠しにしてきた。
うーん、なんだろうか。書いてると途中から、性別とかよくわからなくなってくる。ただ、見た目的な問題も在り、10代のころは男子から女子扱いされることなく、男子とはエロゲーや、クソゲーの女子をおかずにヲタトークで盛り上がるたのしい日々を過ごしていた。女子とは、ゲームの話をよくしたり、好きな男の子の話にも花を咲かせていた。女性の世界ではもてない女として、男性の世界では名誉男性的なポジションで、一人のキモオタとして、私はそこそこ居心地が良かったように思う(絶望的にもてなかったけど)。
自分の肉体が女であるという問題以外ではさほど困らなかったのだ(いや、モテなかったという問題も強いけど)。やはり、女性として社会的に生きにくいというのは、社会に出てからのほうが圧倒的に苦しめられた。
男としてストレートに生まれていたら悩まなくてすんだのだろうけど、まあ、女として生まれたからこそ、社会の問題に気がつけた部分は大いにある。男だったら、私はいつまで童貞だったんだろうか。たぶん、絶対モテナイ。中学生の頃は、男に生まれたら絶対女にモテたと思っていたが、性格の悪い差別主義者で女心のわからないキモオタを、誰が好きになるというのだろうか?
そう考えると、女に生まれてよかったのかな、とも思うが・・・。
うまい飯屋とデートスポットは別物。
ツイッターで男のデートの話題が上がっているを見て思ったことがある。
読書くん on Twitter: "ファミレスとファストフード以外に外食店の選択肢がない男性はそれなりの割合いるので、その手の人とデートする時は女性の方からお洒落な店を提案するのも一案だとおもう"
マジでこれだよなぁと。
恋人に食を求めてどないすんねんとおもう。
そもそも、うまいレストラン、しかも値ごろ感がいい店、デートにおあつらえ向きな店を知っている、というのは、並みの財力と経験では得られない。
若かりし頃、上司など、毎晩飲み歩いている人と(会社の経費で)、よく飯を食べに行っていた。そのころ、思っていたのは飯屋を知っている人は物凄くマメ、ということだ。
上司の年代のせいもあるが、彼らはうまい店メモ作っていた。そこに、料理の種類や、エリア、価格帯、営業時間など、情報がかなり整理されていた。
だいたい飯を食べに行くなんて時は深夜に及ぶので、都内で12時前後空いてるうまい飯屋を探すとき、御仁はメモ帳片手に営業時間をチェックしながら目星をつけていた。
(ちなみに飲み歩いていた当時、私は20代だったが、愛人だったわけではない。マジに食に愛着が強い人は、女よりも飯への愛着が強いので、どんなに深夜に及んでも貞操の危機を感じたことはないし、彼らは主に飯の話しかしない)
私も彼らに真似してアーカイブスを作ったものだが、マメさと経済力、あと酒が飲めないという致命的な欠点のため、1人夜飯のハードルが高く、挫折した。
そんなガチ飯好きの人たちと外食ばかりしていたためか、恋人にはうまい飯屋を求めることはなかった。付き合う男は皆、飯屋の選択のセンスが悪い人ばかり。
大学の後輩は金も知識もなかったし、40代の男性も、そこはないな、と思う店がうまいといい、夫も基本チェーン店しか知らなかった。
ちなみに、そこはないな、とは思っても味覚音痴とは思わない。うまい・まずい、快不快はその人の人生経験に根ざしたものだ。頭ごなしに否定はできないし、私のうまいをまずいと思う人もいる。パクチーが口に合う合わない人がいるのと同じだ。私はアジア系の料理が比較的得意なのだが、それは私が東アジア料理に触れる機会が多く、外国の味覚への寛容度が高いからこそだ。逆に東北や北関東の味覚に触れる機会が少なかったために、そのエリアの味付けはなじみが薄く、うまいと思うこともなかなかない。
どこの店をうまいと感じるかその人が生きてきた人生そのものでもあり、肯定も否定もするべきものでもない。店屋の選択を基準に、人の良し悪しは決まらないからこそ、別にどんな店に案内されても気にならないというのはある。
そもそも恋人に私は一緒にいて居心地の良さや、見た目の良さ、会話のテンポの良さを求める。飯屋の選ぶセンスなんて、別にあってもなくてもいい。
恋人に店屋の選定を丸投げする方がおかしい。飯屋の好みのタイプをきいてばちこんの店を選べるなんて男はマジで遊んでないとできないし、そんな男と対等に付き合えるのは、丸投げせずに語り合える知識のある人ではないだろうか。
私のように、うまい飯屋には行きたいが己で開拓するほどの冒険心も、財力も、几帳面さもない人は、男に飯屋をもとめてはいけないと思う。
ただ、やはり、うまい飯屋に行ける友は欲しいなと思う。
いい店、というのは、私のような下戸の女が1人で行くにはハードルが高い。(漠然とだが、うまい飯屋において女の客人は男が連れてくるもの、という暗黙のルールがある気がして、気がひける)さらに、服装も雑な格好(カジュアル)では足を踏み入れづらい。もっといえば、女性は食事の時の立ち振る舞いが店の人にとっても、最も大切なマナーだろう。粗雑な私にはその意味でも大いなるハードルがある。
たぶん、財力の余力のない男にとっても、敷居は高いだろう。だからこそ、金もない若い男にうまい飯屋なんて期待しちゃいけないのだ。
書いてて気がついたが、飯屋は圧倒的に男社会なのだなぁ。(気軽に入れるうまい店屋ももちろんあるが、うまい店屋はやっぱり独特の暗黙のルールがあるように感じる)
でも、また、うまい飯屋でも、開拓してみようかなぁ。
解決した
義母への、社会からの女への不満をぶちまけたが、話し合いの末、解決。話し合いができる家族であることは、私にとって、最上級の幸福だ。共に歩んで行きたいと思える人たちだ。
正直、売り言葉に買い言葉、母も、どこかにどこまで息子夫婦の生活に手を出すべきかの迷いや、私のつれない態度から、不安があり、自分の努力は間違っていないのだという、確信や後ろ盾が欲しくて、世間、常識を後ろ盾にした言葉を使ったのではないだろうか。
ただの売り言葉に買い言葉で、息子の世話をあなたが見ない、と言っただけな気がする。そんなことたぶん、思っていないんじゃないか、のちの話し合いでは、そう感じた。
私の肥大化した被害妄想と、母の言葉に出さず、先読みしすぎる優しさと習慣がこじれさせていたのだと思う。なんにせよ、阿吽の呼吸など、ありえない、思いは口に出さなければ伝わらない。ただこじれるだけだ。言葉に出すのは勇気がいることだし、相手へのは信頼がないとできないことかもしれない。
それを改めて肝に銘じたい。
世間ではない、自分の言葉で相手に話しかける、自分の経験を下地に相手と対峙する。常に足を地につけて。それを意識して。
離婚の危機を乗り越えながら
最近、離婚の危機が起こっている。
いや、離婚はしないが、離婚しようかな、とは思った。
夫が嫌いなわけじゃない。むしろ大切なパートナーと思っている。が、義母にひょんなことから、洗濯とか、ゴミとか、部屋に勝手に入っていじるのやめてくださいとやんわり伝えたら、
「あなたは遊んでばかりで充分にあの子の面倒を見てくれない。でも、嫁が・・・なんてグチグチ言うようなことは言わない。だから私があなたに変わってあの子の面倒を見るの。ここまで譲歩しているのに、それさえ許してくれないなんて、ひどい」
と泣きながら抗議された。
私は、
「ああ、ようは、私の全てが気に入らないんだな。私には本当に興味がないのに、我慢してやってるから、プライバシーを侵害されても文句をいう資格すらないのだな」と理解した。
まあ、母からしたら、ご飯の支度もしない嫁なんて、ありえないだろう。義母は、働きながら家事全般をやってきた人だから、彼女の生きた世界では、私の面の皮は水族館のガラスばりに分厚いだろう。
それから3日ほど、家を開けた。会社でこっそり寝泊まり。仕事関係の人が見ていない場では、ずっと泣いていた。なぜかな。たぶん、わかっていたのに、気がつかないふりをしていた自分の甘さと、同居人に全否定されていたということ、もうあの家に居場所はないと確信してしまったこと、だろうか。
夫とは、色々話をして、家を出ないことにはした。夫のことは心から信頼しているし、最高のパートナーだと感じている。(今回話をする中で、改めて、これ以上の人はいないと思えた)
だが、もう、あの家を家だと思うことはもうやめた。それが正解か?間違いか?はわからないが、全否定されたことを受け入れろ、というのは、私があまりにも可哀想だ。
せめてものレジスタンスとして、夫が家にいないときは家に帰らない。そして私は仕事を頑張ろうと思う。
仕事はレジスタンスとしてだけでなく、義母が望む息子の世話を、私ができるとしたら、彼がもっと気楽に働けるように、私の年収を増やす。そのために、しゃかりきに働く。それが、彼にとって、きっと最大級で、今の私でもなんとかできる唯一の夫への支え方だと思う。