大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

コンサータログ、薬を飲み間違えるの巻

あ、そういえば、コンサータを、43ミリにした。

 

んだけど…あれ。コンサータの量を間違えて飲んでいる気がしてきた。

54ミリ飲んでる気がしてきた。今朝、36ミリと、27ミリを飲みそうになって、いかんいかん、これじゃあ、用量が多いぞ。36ミリと、18ミリっと。飲み直した記憶がある。

けど…あれ?43ミリにするためには、27ミリと18ミリじゃん。

 

ああ、算数ができません、できませーん!(涙)

 

たぶん、なんか「残りの薬の数が毎日同じ数飲んでいるはずなのに、合わないな。なんでだろう?」と思いながら、口に投げ入れていた。

薬をのむときは、基本的に、あんまり薬の文字は見ないで口に入れていたからなぁ…。地方に遊びに行く前まではたぶん、ちゃんと飲んでいたから…ここ6日くらい、54ミリか、63ミリ飲んでたな…。ただ、疲れすぎてて、ガンガンお昼寝もできていた。

 

眉唾情報ですが、自分の体重のkgをmgに置き換えた量が適正量の目安と聞いたことがあります。体重50kgの女性であれば、45mg(18mg+27mg)か54mg(27mg×2)が効果が出やすく体の負担のバランスも考えた適正量の目安になるということですね。*1

ADHD治療薬のコンサータの効果や副作用は?服薬開始から1年経過した感想について - 成人ADHDが理想の生活を目指すブログ

 

 

ワイは63キロあるので、まあ、そう考えれば、63ミリでも、まあ、大丈夫なのだろう。 眉唾らしいけど。

medical.nikkeibp.co.jp

このページによると、コンサータの副作用は下記らしい。

食欲減退不眠症体重減少頭痛腹痛悪心チック動悸口渇睡眠障害咽頭炎

あ…そういえば、ここ数日、食欲がなくて、腹痛がして、頭痛がして、山登りで動悸がしていたのは…もしや副作用か?

いや、でも、確実に54ミリ飲んでいる*1今日は食欲があるから、あんまり関係ないか?毎日ぐっすりですし。仕事中でも寝ていいなら全然寝れる。

コンサータ飲みはじめの頃は、けっこう眠れない感じがあったのに、用量が増えるごとに、体に耐性ができているのか?どんだけ飲んでもぐっすり寝れるな。

 

先生には、「休みの日は飲まなくていいですよ」と言われる。けど、薬を飲んでいないとね、体がすぐ疲れちゃって、眠くなっちゃって、活動できないからなぁ。若干依存傾向があるのかもしれないな。少なくとも休みの日は用量を減らすなりしたほうがいいかもな。

でも、薬がなかったら、ここ数日は動けなかった気がするな。…ていうか、スケジュール見返したら、9月に入ってから休みなく動き続けているじゃないか!?

月曜日に、全く使い物にならなかったのは、必然だったのか…。いかん、どこかでしっかり休まないと、突然ガス欠を起こしかねん…。

 

そういえば、薬の説明書のページに、お酒を飲むと相互作用を起こす的なことが書いてあったな、お酒、全く飲まないから、聞いてる感が弱いのかもしれないなぁ。

*1:なぜなら、いちいち、36ミリと、18ミリと確認し、開けた27ミリを捨てた上で、飲んだから

思春期の子供を育てるって大変だな―

一説には、精神的な成人は30歳とか聞いたことがある。

20代の若者を見ると、あながち、間違っていないなーと思う。

20代で、10代のうちに反抗ができなくて、社会人になってから、親の反対を押し切って、(というか、親の思い通りにしか行きてこられなかった人生をやめようと)仕事をやめて無職のまま上京してきた若者の話を聞いた。

無職で、働いていた当時の貯金を食いつぶして生きているらしいのだが、存外堅実で、社会性も高いので、まあ、なんとかなるタイプだなという気がするし、大丈夫かなーという変な不安に駆られることはなかった。

だけど、自己愛の強さに、すごい神経を使った。

自分を知ってほしい、自分を見てほしい。100%齟齬なく、自分をわかってほしい!!

という気持ちがものすごく強くて「お、お、重い…」と。

しかも「自分はおかしい、変わっている、普通の人とは違う」という自意識が強すぎて、とても「いや、もーすげーその感覚普通だよ?」とは言えない空気感というか。

言葉の端々に「(あなたにはわからないかもしれないけど)この界隈の人にはわかってもらえるんですよ」と枕詞を付けて語りだす。

 

君の言いたいことはわかるよ。お前が特殊だから、意味がわからないんじゃないんだよ、ただ、君の語彙が稚拙だからいまいち何言ってるかわからないから聞いてるんだ、馬鹿野郎。もっと客観的になれよ。という気持ちがいちいち湧き上がってきてしまった。

ああ、私も大人になりきれていないね。

そういう気持ちを抑えながら、自分が特別だと思う気持ちに水をささないように、肯定をする。

「私も若い時そう思っていた、すごく懐かしい感覚がある」と、喉まででかかったけど、下手にそういうことを言うと「でも、あなたはちゃんと社会人やって云々」と、あなたと私は違うんですアピールに走り出して、話がよくわからんことになりそうだしなーと。

 

自分をわかってほしい、自分を認めてほしい、私は特別、という気持ちが前に出すぎていて、素直な、素朴な言葉が聞こえてこなかった。無自覚な虚栄心に包まれた言葉を、少しずつ解きほぐして、私に対する警戒心を問いて、本当は自信がない、繊細な心持ちを魅せてほしかったけど、まあ、無理だよね。

 

思春期の子供というのは、難しいよな。自我が芽生え始めたばかりだけれど、それが一体何なのか?言葉にまとめきれない。ただ、つまらない大人と同じだと、認められないし、同じだと言われるとむかっ腹が立つ。たぶん、それこそが自立なのだとは思う。

人の成長過程を見ているようで少し、微笑ましくもあり、また応援してあげたいという気持ちにもなった。ただ、繊細なその心と向き合うのは、なかなか難しいものだ。

おそらく、1ヶ月後には、全く違うことを言う出す。それでいいのだと思う。今は、大人や親が与えてくれた価値観ではなく、自分の言葉で、自分で世界を作り直して、しっくりくるものを模索している時期だから。

ただ、私はそんな青年の青春を、取材する価値が本当にあるのだろうか?

迷わずにはいられない。

若者の取材って、やっぱり難しいんだな―。

 

先入観が強すぎてまともな判断ができないけれど

正直言って私は、性自認を男性とも女性とも思えない微妙な立ち位置にいる。

それは、子供のころからそうだったのだが、それでも、平成のはじめから通っていた学校という場では、女児、女子と扱われてきた。

中学か、高校か、そのあたりから混合名簿になったような、単純に、生まれ年順が、名前順になっただけか、全く覚えていないが、正直子供にとって見れば、名簿なんてそんなものだろう。名簿が男女混合になったからって、どこまで子供にメリットやデメリットがあるのか、という気がする。

mainichi.jp

 

混乱するのは管理する大人のほうだと思う。高学年になったら、女生徒だけでやる保健体育とかの授業とか(そもそもあれは混合でやったほうがいいとは思うけど。ちゃかすやつがいたら、茶化すほうがおかしいという教育も含めて)体育のときの着替え(特に水着)のときの点呼とか、もしかして意外と運用になれるまでは難儀するかもしれない。

でも、男女で分かれることは、本当に合理的なことなのだろうか?と思う。もちろん、男女で着替えを分けることは私はそこまで非合理的なことだとは思わないし、セクシャルマイノリティへは、個別対応するほかやりようがない気もする。

 

これまで運動会の入場行進や綱引き、リレーを男女別にしてきた9月の運動会については夏休み中に教職員で協議。行進を男女別、綱引きとリレーを混合にすることにした。

新聞報道によると、こういうことらしい。 

 ただ、運動能力的なことで、本当に男女で分けることは、本当に合理的なのだろうか?私も「女生徒のほうが筋肉が少ないから」とつい条件反射的に考えてしまうが…それこそ、運動能力や身長別で分けることも一つ合理的判断ではないだろうか?私は最近格闘技を習い始めたのだが、男女別に分かれてグループを作ることがある。

その男女別…だから、身体能力が一定か、と言えば、全然そんなことはない。小学生、中学生、高校生、30代(私)だ。

小学生は、もう、背が低いし、スピード遅いし、ふにゃふにゃしているし、正直技入れるのが怖い。かと言って、高校生は、素人の私が技を入れるすきもないし、全般的に動きにキレがあるし、ヤラレっぱなしだ。

そりゃあ、年代が違うから、と言われそうだが、年代が近くても、運動能力の差はある。正直、同じ時期に習い始めた3,40代の女性が相手だと、技のキレもないし、こっちが技を入れたら、倒れそうだし、正直練習にならない。

習いはじめの高校生の男の子のほうが正直身長や経験値的にちょうどいいなと思う(いや、身体能力は大幅に私のほうが劣るんだけど)。

運動においても、十把一絡げに性別に二分するのは、あんまり合理的ではないんじゃないかなという気がする。もちろん、時間がない中で、適当に分けるのに性別は最適だと思うけど、タイムでわけるとか、身長で分けるとかの方が、合理的だろうなと。

正直、運動になると、「女は女と」「男は男と」にあまりにも慣れすぎて、それが当たり前過ぎて、フラットな判断ができるかはわからない。だが、体格の小さい男の子とかは、発育のいい同級生の男の子との、割の会わない戦いを強いられていたりとか、実は運動こそ、性差で分けると、子供の個性を踏みにじることもあったりするのかもなぁなんて思ったりした。

月曜日は、仕事がつらい

あ、これ、「空が青い」くらい当たり前のタイトルですね。

仕事が手に付かない感じです。

そもそも、土日ともにしっかり働いていたので、月曜日だから仕事がきつい、というわけではないような気がします。

ただ、今日はなんとも仕事に手がつかない…。

困っています。

頭の中が整理ができなくて、優先順位がつけられない感じですね。何をやっていいのかわからない。薬のおかげで多少眠気は起こりませんが、なんだかどれから手を付けたらいいのか、わからないし、おちつかなくて、珈琲も入れられません。

ああ、でも、珈琲はいい加減入れようかな…。

コンサータ36ミリを飲んでもやっぱり忘れ物をして家に取りに帰ってしまいました。

先生やっぱり僕はミリ数増やしたいでちゅ。

私は「〇〇」であるという強烈なこだわりがない

私は自分の性別のアイデンティティが希薄な人間だと思う。

自分を女性と思えないし、かといって男性だと思うことは、どうしても違和感がある。

男性である、と主張できないのは、体に男性器がついていないことと、男性ホルモンが優位に流れていないから、と言う理由からだ。だから、女性であることを受け入れているわけでもないし、いわゆる、男でもない、女でもないという、Xジェンダーというわけでもない。自分は本当は男だと強く信じられるトランスジェンダーでさえない。

性別のアイデンティティが希薄、確立していない人間だ。まあ、30歳をすぎてアイデンティティが確立していないというのはまるで思春期のようにとられてしまうかもしれないが、どちらかというと、アイデンティティは一定ではないのだとおもっているわけだが。

おそらくアイデンティティは、使う言語、生まれた地域、性別だけじゃなくて、年齢、子どもがいるか、パートナーはいるか、職業の選択、学歴によって、変わっていくものだろうと思う。

マズローの欲求5段階的な自己実現欲求や、思春期の自我の確立とは少し次元の違う話ではあると思う。

 

それともう一つ、我ながら希薄だなと思うのは、発達障害者ということだ。ADHDと、現在ブログのタイトルは書いていたが、そろそろ微妙な気がしてきている。一時期、私の仲で、ADHD当事者発信が熱かったのだが、(というか、特にコンサータが熱かった)最近はコンサータを使い慣れてしまったし、特に発信することもないので、自分を育て直しに戻そうかなーとか、思う。それくらい、自分のADHDである、というアイデンティティはそこまで強くない。

ネット上で「#ADHDあるある」とか見ちゃうと、「う、うん、でもそれ人類のあるあると言っても過言じゃないんじゃ…?」とつい思ってしまう。

もちろん、ADHDやらASDはその人の人間性や人生に密接に関わるものだとは思うのだが、障害名をアイデンティティに結びつけるのは若干違和感を覚える。

 

自分がすがる、アイデンティティがぱっと思いつくのは、職種だ。

自分が生業としている「テレビ屋」という職種には、かなりアイデンティティを持っているが、正直、これもかなり危うい。仕事をやめようと思ったときに「この仕事をやめたら…私には何も残らない…」という尋常ならざる喪失感に襲われ、まともな判断ができなくなるからだ。

 

 

…あ、もしかしたら、「非モテ」「キモオタ」「陰キャ」っていうものに対しては、強烈にアイデンティファイされているかもしれないな…。

 

どうでもいい?

知ってる、わかってる。だけどな、男には、どうでもいいと思われても主張し無くてはならないことがあるんだよ。

いや、嘘です。はい。どうでもいいです。

男性が生理を語ることに感じる漠然とした警戒心

mainichi.jp

この記事を見て、思い出した。毎日新聞購読していないからちゃんと読めていないけど、生理用品について男性が論じることにふと、心の底で、妙な不安が立ち上がってしまう。でも、妙に発言しづらい。人の体を知ることは大事だし、決して悪いことじゃないからだ。あと、この流れを止めるのも良くないとも思う。ライター諸氏にはぜひ頑張ってほしい。だけど、言葉にしづらい違和感を、どこかにずっと吐き出したかった。

 

gendai.ismedia.jp

 

ライター夫婦の仲睦まじい関係性は別として、漠然と思う一言がある。

「え?気持ち悪くね?」

である。

もちろん、記事中に、パートナーシップが改善された、とか、相手のしんどさが理解できたとか書いてあって、もう、すごくいいことだと思う。相手の体を知ることは大切なのだと思う。でも、なんで、他人に、自分の体のことをいちいち報告しなくてはならないのですか?という、素朴な違和感がある。「生理は恥ずかしくない!」「もっと男も生理を知ったほうがいい!」と称賛する自分自身をずーっと、「うーーーーん」と腕組みしながら拒絶しているもうひとりの自分自身って感じだ。

よくわからないけど、これってすごい危ういよなぁと思うのだ。心の奥底で、どうしても、「女の子は守らなきゃくちゃいけない」という共通ルールの上で、話が全部進んでいるような気がして、どうしても気持ち悪いのだ。

なぜ、なんの批判もなく、好意的に受け入れられるのかが全くわからない。このライター夫婦のパートナーシップのことはいいと思うのだ、もちろん。

だが…女性の体ってそんなに特別なんですか?女性ってそんなに守らないといけないものなのですか?女性の体を男性がいちいち見守る、干渉していることが、なぜ誰も気持ち悪い、と思わないのですか?と思うのだ。守るべきは「女」ではなく「弱っている人」、でしょ?と。

男性にとって「生理」は神秘だろう。性器から血が出るなんて、それはなかなか驚異的なものがあるだろう。だけど、男性期から、快楽の絶頂になると白い液体が出る、というのもなかなかの神秘だ。しかも、性器がメンタルの具合と密接にくっついていて、大きくなったり小さくなったり、勝手に動いたりする、なんていうのもめちゃくちゃ神秘だ。女性の体が繊細であるように、男性の体も繊細で、神秘だ。

 

生理痛で死ぬほど苦労する人もいれば、EDで人生に絶望して死ぬほど苦労する人もいる。知るべきは「女」の体、「女」の苦しみじゃない。「人」の体、「人」の苦しみのはずだ。

 

身体をネタにするのは、いいと思う。男性の早漏をネタにしたり、童貞や非モテをネタにした漫画はいっぱいあるから。生理だって、同じだ。病気に結びつくこともあれば、ギャグになるものもある。男性器と同じように女性器もまた、逆からシリアスまで様々な顔を持つ。

 

男性が生理について発信するのは全然悪いことじゃないと思う。むしろいいことだろう。生理は恥ずかしいことじゃないし、もっと恥ずかしくなく語れる環境になればいい。まっとうな大人であれば、生理を恥ずかしいことと受け止めることはない。

 

人の体を知ることは大切だ。だけどそこに、「女の子は守ってあげないといけない」というルールがあっては、いつか「女な複雑で繊細だから男が気を配って管理してやらないといけない」となって「女は弱いから、男が管理してやらないといけない」は、いずれ「男が女を支配していい」と、結局戻っていってしまうように思う。誰も誰の体も、心も、性別を理由に支配、管理なんてしちゃいけない。女の体は常に弱いわけじゃない。逆に男は常に強いわけじゃない。

手放しに、女性を崇拝することは、支配につながると思う。その気持ち悪さをなぜ誰も口にしないのか、その異常さに私は気持ち悪さをずっと感じている。

社会的に女は弱い立場にあるから、守ってやらなきゃいけない、も、筋違いだ。違うよ。社会的に弱い立場に追いやられるのは、必ずしも女だけじゃないよ。社会的に弱い立場に追いやられても、その人の変えられない属性で守る人、守ってやらなくてもいい人って選別するのが良くないんだよ。と私は思う。

 

生理のギャグ漫画と対となるのは、チェリーナイツとかじゃないかなーと思う。マジくだらないけど、かわいくて好き。

 

 

不登校について思う

別に身のない話なのだが…小学校低学年の姪が不登校になったらしい。

姪っ子の親は、ちょうど海外にも生活拠点がある夫婦だったので、海外の日本人学校に、たぶん通わせている。

不登校になったタイミングでしかその情報を聞いていないので、その後は元気に通っているのだろう。夏休みを利用して帰国したときにあったときは、真っ黒に焼けてとても元気そうだった。

姪っ子は、おばの私が言うのも何なのだが、とても聡明な子だ。勉強が好きだし、図書館や本屋さんにつれていけば、黙って本を読んでいるような子だ。そんな子が不登校になったので、私は特に心配していないのだが、気になるのは彼女の両親だ。

だが、彼女の両親も最初は悩んだようだけど「まあ、私達の子だから、社会性が低くてもしょうがないかなー」と、開き直ったらしい。

ひきこもりが長期化する親の切実な様子をつぶさに見ることが多い身としては、それくらいのゆるさで受け止めているのなら、なんだか、ほっとする次第だった。

よく学校で社会性が育つ、なんて言われるが「いや勉強するところだろ」という思いが強いんじゃないだろうか。というか、私はそう思っている。姪の知識に偏りがでるのは可哀想だから、ちゃんと勉強してほしいとは思うけれども、別に学校じゃなくてもいい、塾でも、通信制でも、なんでも。

人んちのことなので、口を出さないし、姪っ子に学校行けとか、勉強頑張れとか、もちろん言わない。というか、姪っ子は自発的に勝手に勉強する。学ぶと言う行為が、苦ではないのだろう。心の底から羨ましい。

 

ただ、私自身が親となって、子供が不登校になったら、しかもそれが、人間関係ではなく、勉強したくない、とか、苦痛、とかだったら…困るな―。悩むな―。

学問は、人間関係や職業選択の武器になるだけでなく、自分が立ち止まったとき、悩んだときの強力なアシストになる。孤独から救い出してくれる救済にもなる。なによりも、知らない世界への扉を開く鍵にもなるし、それ自体が遊びにもなる。

基礎を学ぶまでは忍耐がいるかもしれないけれども、その基礎さえ学べば、可能性は広がるばかりだ。

でも、学校の勉強が苦なのだしたら、勉強は楽しいものだと、感じてもらえる環境を、親は作ってあげることしか出来ないんだろうな。

…学校じゃなくてもコミュニケーションは学べると思うのは、単に私がコミュニケーション強者なのかもしれないなぁ。