読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

育て直し(自分を)

どうやって生きていくのかぼんやり考えるブログ

誰かにいいたい

でも、ちょっと誰かにいっても「お、おう?そ、そうか…」と言われるだけなのは明白なので、ここで書こうと思います。

私は、テレビ屋になりたいわけじゃない、とやっと、自分の心の中で言えるようになったような気がする。

 

それは、毒母ミーティングに言ったことが大きいと思う。

私がずっと興味を持ってきたことのテーマには、確実に親の影が存在していると、気がついたのだ。

新卒の時、なぜ自分がメディアを目指したのか、を考えた時、「子供が悲しまない社会を作るため」と思っていた。子供の頃、私は、離婚をはやし立てる社会の風潮があり、それを作ったのはメディアだと考えていたのだ。(だから私の家族は離婚したのだ、ということだ、今考えてみれば、離婚しなかったらヘタしたら母は発狂していたかもしれないから、離婚してくれてよかったのだが…)メディアをコントロールできれば、社会の風潮を変えることができる、だから、マスコミ、テレビだ、と思っていた。(漠然と映像制作が好きだったというのはもちろんある)

私は、そもそも、働きすぎる社会が疑問だったし、未だ女だけが育児、家事と仕事を両立せざる得ない社会にも腹が立っていた。だが、実際扱ったのは、ニートひきこもり。なぜか彼らとの居心地はよく、共感できる部分も多かった。若者問題、母子問題、アダルトチルドレン、気がつけば、どんどん、家族の問題に引きずり込まれていった。

一方、テレビが作りたいからって、そんな問題ばかりやっていられない。やらなきゃいけないことはたくさんあるし、会社を存続させていくためには、レギュラーの番組ももたないといけない。さらに、編集や、さまざまな妥協や、ストーリーラインを作るために、演出という、事実とは多少異なる効果も付け加えざる得ない(そうじゃないと物語が成り立たない&面白くなく、見てもらえないから)。

 

テーマについては強い思いをもっていても、番組そのものに、愛を持てない自分がいる。さらに言えば、他人がつくったものに全然興味が無い自分がいる。映画も、テレビもそんなに好きじゃない。「テレビ見なくちゃ」と奮い立たせないと、ドキュメンタリー番組は見ない。そもそも、ドキュメンタリー番組はお涙ちょうだいで、大嫌いだった…。

別にテレビ屋になりたいわけじゃない、私はクリエイターじゃない、そう気が付きながらも、ずるずると、「こうするしか方法がない」「正義のために」「やらないといけない」とともかく、なにか理由をつけて、自分を追い込んでいた。でも、結局は、テレビ屋仲間と縁を切りたくない、給料のため、「ディレクター」と呼ばれたいという名声欲、承認欲求でしがみついていただけだったんじゃないだろうか?

 

でも、そう思っても、やはり「本当にやめていいのか?」「テレビという強力な発信力のある媒体から離れて、家族のためにできることはなくならいのか?私は自分の地位を自ら棒に振ろうとしていたのではないか?」と、自分を咎めずにはいられなかった。

それでも「私は、テレビ番組制作を続けるべきではないのか?」という思いがどうしても拭えずにいた。

しかし、毒母ミーティングを見ていて、私は少し救われるような気分になった。ただ見ているだけ、だが。彼らは皆テレビを作る人ではない(構成作家もいたが)。本こそ書いている人たちだが、それは、なにかの本業や別のことをやりながら、やっていることだ。それに、イベントで自分の思いを代弁してくれる人を頷いて見ていて、会場と一体になれるだけで、勇気をもらえた。人を救えるのはテレビだけじゃない。方法はなんだっていいんだ。テレビにしがみつくこともないし、絶対に縁を切ったほうがいいわけでもない。テレビ屋としてのたった数年のキャリアでも、それが私が生きてきた道なのだから。

 

誰かをすくいたいんじゃなくて、そもそも私は自分自身をすくいたいような気もする。私のように、生きることに罪悪感を抱える人を救うことで、自分自身も生きていていいんだと、自分を納得させることができる。それは、別に、テレビじゃなくてもできる。確実に1人1人を救っていく方法だっていいはずだ。

自分にあったやり方、自分がやりたいことをやればいい、そうじゃなくて「じゃなきゃいけない」「しなければならない」と、自分を追い詰めてしまうから、気がつけばそんなにやりたくもない、本当は心が離れているものに、一生懸命執着していしまう。

自分の思いにもっと忠実に生きていこう。

 

もっとシンプルに言えると思ったけど、全然シンプルじゃなかった…。まだ混乱してるんだな。