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育て直し(自分を)

どうやって生きていくのかぼんやり考えるブログ

自分探しの本当の目的

私は前職を辞めた時、親族から、お前もいいとしなんだからか子供じみた自分探しみたいなアホなことせんで、現実見なあかん。
自分は探すもんちゃう、探したところでそんなもんあらへんと、早く結婚して子供を産めと強烈に諭されました。

自分探しなんてアホらしいし、そんなつもりなんか、ないわ!!舐めんじゃねえ!とぶち切れたのだが、あれからおよそ3年、自分探しはいくつになってもしていいものと思うようになりました。

確かに、探したところで自分なんて見つからないと思います。でも、たぶん探しているのは自分ではなく、厳密に言えば、自分が歩みたい道なんじゃないかと思います。

自分の視野を広めるために旅に出る、はたからみればそれはとても遠回りだし、無駄以外のものかもしれない。
でも、やっぱり遠回りしなきゃ分からないことはある。
親族に、やってみな分からんなんてアホか、やらんでもわかんねんとばっさり切り捨てられましたが、やらんかったことは後悔や、わだかまりとして残り、うじうじと心の中でくすぶり続けるんじゃないだろうか。それに、やっぱり、やって見ないとわかった気になっただけで、本当に負に落ちて理解することなんか出来ない。

アホやとか、あかん、人間として終わったとバカにされても、そんなんに耳を傾けてはいけない。
他人は他人であって誰も自分の人生を代わりに生きてはくれない。

自分探しでもなんでもいい、立ち止まって考えることは無駄ではない。必要だからこそ立ち止まるだけのこと。

親族にはそう怒られてから、もう何も報告しないことにした。
親族の説教は、正当性よりも「私はやりたいことを我慢して来た、自分とじっくり見つめ合うことも出来なかった、だからお前も周りの常識に従って、私のように、自分を犠牲にして生きなさい」という恨み節に聞こえてきたのだ。
ああ、自分探しと親族が表現する行為を行わないとこうやって鬱積した後悔が無意識の中に潜在化されてしまうのだなと思った。
自由にできる私に対する羨望を無意識に抱える親族に、何を言っても通用しない、勝手に生きようと思えた。
ただ、そこまで割り切ることができたのはここ数ヶ月かもしれない。
結局働くことに私は固執し続けていたしなぁ。

今はただ、私が何を望んでいるのか自分としっかり見つめたいと思う。
自分探しは一見無駄な行為で遠回りかもしれないが、必要な回り道なのだから。

ちなみに親族は関西人だ。
なんか、東海人たる私が関西弁で怒られると強烈に耳に残るものです。