大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

私は非リア充

先日、広告関連の仕事の飲み会があった。

結論から言えばすごい疲れた。
 
普段ストレスのない環境にいるためか、気が付かなかったが、リア充的なコミュニケーションが結構苦手のようだ。
30年生きてて今更気がつくのもなんなのだが、考えてみればそういうことだったのかと膝を打つ思いだ。
 
きっかけは、飲みの席で、話がしたいなぁーと思った相手の席に移動した時、
「なんでそんな数珠ばっかり触ってるの?さっきから動きおかしいよ」
と、突っ込まれて。
数珠というか大きな玉を連ねたネックレスをしていたのだが、無意識に撫で回しまくっていたようだ。そこで初めてなんともいえない居心地の悪さの正体に私は気がついた。
え、もしや、私、めちゃめちゃ緊張していないかね?
好きでリア充風な広告マンの輪に入っていったのに、緊張して言葉を選びまくっていたわたし。仕事の話に逃げられるほど彼らとこみいった仕事はしていないし、質問することしかできないが、それが会話として広がっても面白くなさそうで、あんまり広げることもできない…。
仲良くしたいのに、心を開きたいのにどうしていいかわからない…。
場の空気感を読みながら(酒が飲めないので酔ったふりもできない)場に戸惑う自分自身に少し驚いていた。
 
リア充の会話とは、テンポよくボケとツッコミの応酬をしつつ、お酒を美味しく飲むというものだと思うが、考えてみれば、私はあんまり浅い話は展開できない口だった。
一方、酒を飲みながら、明日を生きるためにはクソの足しにもならない、生きるとは何か、愛と性とはなにか、なぜ浮気はダメなのか、政治とはなにかという、禅問答とか、哲学の話しが好きな私としては、その場が盛り上がり、コミュニケーションが円滑になることが最重要なトークはあんまり得意ではなかった。
(哲学は大切だが、実務性は極めて低いものだろう)
しかも、相手と自分の興味の方向性があっている時じゃないと答えのないトークというのは盛り上がらないから、また難しい。さらに多人数とするよりも1対1でじっくりと相手の考えを深堀するほうが面白いと思うタイプ。
考えてみれば、私は飲み会は苦手なのだ。
だが、不思議と、得意だし、飲み会の席は好きだと言う自己認識があった。
おやおや?私は一体どうやって人とコミュニケーションを取ってきたのかな?
 
やはりあれか、若かりし頃は若いゆえにちやほやしてもらえていたのか?
それともやはり心を開くまでには時間がかかるのか?思い返せば、飲み会でバカみたいに食べていたのは、お腹が空いていたことと、緊張を紛らわすためだったのだろうか?
 
なんで得意だと思ってきたのかナゾ。自己暗示かな。恐ろしいものだ。