大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

思いを言葉にする大切さ

※衝撃的に文章が走り書きすぎたので少し加筆修正しました。

 

最近思っていることを言葉にする大切さを痛感している。

私はテレビ業界に生きている。テレビ番組というのは、映像の世界だけなので、言葉だけでもの考えて映像化すると死ぬほど陳腐なもの、というか、まったく見応えのない映像ができあがる。

ディレクターになりかけの頃作ったVTRは、頭の中でまずナレーションを考えて、それにあうような絵をつないでいった。もっと言えば、絵を全然大事にしていなかった。

この仕事をするようになってやっと気がついたことだが、人は目の情報の方が受信しやすいように思う。ナレーションでいかに論理的に分かりやすい言葉で説明していても、絵がそのナレーションを説明するものでなければ全く頭に入ってこない。

今になって考えれば当たり前だが、ナレーションなんて言うのは映像の補助的なもので、映画はほとんどナレーションはなくても成立する。

若かりし頃の私はナレーションを中心に映像を考えようとしていた。

もちろんナレーションにあわせて絵をあわせていくことはできる。

だが、ナレーションに会わせて映像をつなげているだけなので、映像だけでは意味が通じず「何がいいたいの?」という映像に仕上がってしまう。

正直言って文章を作ることに得意という意識もたいしてないのだが、それでも、もともと大学で新聞部だったりして、文章を大切にしようとしていた私。20代後半は今のままではいけないと、映像でものを考えることを心がけてきた。

しかし、30代になって、その映像を言葉で説明できるようになることがさらに重要だと気がついた。

映像でものを考える訓練をして、ようやくパッと頭に映像が浮かぶようになってきたのだが、今度はその映像をどうやって伝えていいか分からない。

先輩ディレクターたちが表現する「うーん、このつなぎ(編集)気持ち悪いな」「この絵じゃ繋がらないな…」ということしかわからない。

何が気持ち悪いのか、どうしたら繋がるのか、全然言葉で説明できない。

言葉で説明できないということは、第三者に分かってもらえないということだ。

カメラマンは何となく分かってくれる、特に熟練のカメラマンは。私に明確な意図があれば伝わる。若いカメラマンはちゃんと説明しないとわからないし、私も説明のしかがた分からず、ただ後ろで「そこじゃねえんだけど、こっち行ってほしいんだけど、どう伝えていいかわからん…」と悶々として、会社に帰って映像を確認して「だから若手はいやなんだよ」と自分のディレクション能力のなさを棚に上げてぼやくことしかできない。

思いを言葉に変えることは、自分自身のやりたいことを明確に自覚できているということでもある。

私はいつも「お前がやりたいことがわからない」と言われてきた。私もなにかあるんだけど、それが何か分からず「自分が何をやりたいのかわからない、これが私の伝えたいことであっているのか?」そんなディレクターとして大切なことにいつもつまずいてきた。

自分ですら自分のやりたいことがわからない。的確な指示ができない以上、思い結局カメラマンにディレクションをぶん投げてきたわけだ。

 

それは現場だけではない、企画を考えるときもそうだ。

どんな人間にも、かならずやりたいことはある、ただ、それをちゃんと言葉として自覚できているか、そこが「やりたいことが明確な人」「そうでない人」との違いなのだろう。

だから私は、その自分の思いをまず言葉に代えて、自覚できるようにしたい、そしてそれを伝えるための言葉をもっとみつけていきたい。

30を超えてやっとここにたどり着けた。25歳のときにはすでに周りから「もっとわがままになりなさい」「お前は周りの人間にいい顔をしすぎる」と指摘されていたのにな〜。

日々之勉強。

 

そういえば私みたいなやつが主人公の映画があるようです↓

www.nou-poi.com

ちょっと見てみたいなー