同情なんて糞食らえなんです
先日、ひきこもりの集まりに顔を出してきた。
フラットな交流ができる会で、度々顔をだしている場所なのだが、ごくたまに私の生い立ちを聞かれることはある。
「ひきこもりとか不登校の経験があるんですか?」的な。
私は不登校もひきこもりの経験もない。顔を出しはじめのころならばさも、まっとうな家庭で育ちました顔をしていたが、ある程度人間関係と信頼関係ができている人たちの会たちで、家庭内暴力やらなんやらも笑ってスルーされるような場所なのでけっこうさらっという事はあった。
なので、初参加の人にそう質問された時
「私はどちらかというと、家に居場所なかった口なんでひきこもり経験はないんですよ」と、さらりと答えると
「ああ…それは大変でしたね…」と同情されてしまった。
・・・・
なんだろう、この不快感は。
こっちがさらっと言ってるんだから、勝手に想像して同情なんてしないでほしいな、と思った。
この場合の正解は「あ、そうなんですね、僕は…」だ。
私は様々な辛い家庭環境や境遇の人から話を聞くことが多いので、自分が不快感を与えるリアクションをしていないかふと気になってしまった。
もちろん人というのは、時として同情を欲することはある。ただ、辛かったことというのは、意外と聞き流されたり、無感情にぐいぐい聞いてもらえないと語りにくいものはある。
おもーい話をしている時、おもーいテイストで返されてしまうとやっぱり語りにくいものだ。重い話をしている時こそ、ライト、もしくはフラットに返さないと、会話は楽しくない。ただ、大切なのは、時に、人は同情を乞うことがある。
以前、ある母親に子育ての問題を聞こうと一般家庭を訪れた時、色々聞いているうち、その母親が自分の過干渉な毒親への復讐として、(自傷行為としての)売春をしていた時の話を打ち明けてくれて、涙ながらに語ってくれたことがある。
つられて私も泣きそうになったが、彼女は、たぶん、誰かに話したかったのだろう、テープレコーダー代わりに私に話をしたかったのだろうと思い、「なるほど…それは…で、その時、どんな思いだったんですか?」と、受け止めながらも、平静を装い、フラットな姿勢でぐいぐい聞いてみた。(本当は泣きそうだった)
逆に同情をしてほしいというケースもあり「それは大変でしたね、世の中に、その痛みが通じないのは、さぞ辛かったんじゃないですか?」と聞くこともある。
そのへんの塩梅は話し手のパーソナリティや話し方による。
って、書いてて気がついたんだが、同情と心を寄り添わせることは違うのかもしれないな。もしかしたら、同情にはどこか「あなたと私は違うのですよ」という、血も涙も、敬意も、もっといえば興味もない、突き放した感情なのかもしれない。
私の感じた不快感は「この人オレの話広げられる範疇の人じゃねえや」というこっちが投げたボールをスルーされた感覚があったかもしれない。
私の中ではそんなに当たり障りのないボールを投げたつもりだったけど、重かったのかもしれないな。
気をつけよう。
日々是勉強。うむ。