大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

混乱が生じている

この夏、半年間仕事で人と会うことを極力避けてきた反動から、プライベートの予定を入れまくった。
結果、休みの日の忙しさが半端じゃない。もう相当しんどい。
行きたくない予定が多すぎる。

仕事のどうせなんの企画もない、隙間なんだからと休みを手前勝手に取っている。

なんとなく、こいつ休みすぎなんじゃないかという雰囲気が漂う。
だが、定額で金をもらっているわけでもないのだから、居心地の悪さを感じることなんてないのだが。しかも、その休みも、行きたくないのに予定を入れてしまったのか、日程を間違えて記憶しており、各所とリスケをして、色んな人に迷惑をかけている。
さらに、もう一箇所行っている仕事でクビを切られそうだ。生産性は低く、やっている仕事も少ない。経営不振で、クビ切られて当然だ。それ自体にはなんの文句もない。むしろ、こんな余剰人員を囲ってくださっていたこと自体が奇跡みたいなものだ。

その上、最近仕事をゴリゴリこなす人たちと改めて面と向かって酒を飲んだ。仕事をすることにやりがいを求めるとともに、金にこそ至上の価値があるいう基本価値を持っている。もちろん、金を稼がなければ生きていけないというのは、どんな人も抱えているだろう。
だが、無理をするのが当たり前、無理が人並み以上に効くからだ。弱者に陥った経験が極めて少ない、金を稼ぐことが苦ではないという、人たちだ。弱者になるのは自己責任、社会を変えようなんてアホか、自分を順応させろという。
そんな、弱者支援の人々の言葉とは全く噛み合わない、ど直球な正論を受け止めつつ、改めて働くことがよくわからなくなってきた。

休みの日も、仕事と同じくらいしんどいし、仕事も休みと同じくらい楽しいのだ。
だからこそ、どっちも辛い。
ただ何もしない、暗い部屋で、ただ憂鬱に体を包まれながらぼーっとする時間が欲しい。

なんだか混乱している。同じ国にいながら、クラスタが違う人は下地となる価値観が違う。
ただ、どの階層、バカみたいに働く人も、ろくすっぽ働かない木偶の坊も、なんだか、痛みがあるようにしか見えない。どっちも結局社会の歯車で救いの道が必要なのではないのか?
私自身、どこに身を置くのかは別にして、そんな価値観を横断できる人間になりたいなとは思う。
ただ、今は仕事と遊びに疲れて頭がキャパオーバーだ。

あー…もう限界…。