大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

小難しく言葉で文字を書きなぐりたい

疲れているのか?いや、疲れていて、小難しい感じを使って何か心の中に溜まったものを吐き出したいなと思う。
小難しい言葉はやはり使い勝手がいい。
簡単な言葉は、文章の使い方、性格によって一つだけでなく様々な意味を持つが難解な言葉は微妙なニュアンスにフォーカスした一つの意味しか往往にして持っていなかったりする。
だから伝えるのが楽なのだ。
と、実際のところ、私が小難しい言葉を使いたいのはなぜかわからないけど。単に社会から隔絶されたいだけかもしれない。難しい言葉で、意味不明な文章を、並べ立てて、他人との距離を置きたいだけかもしれない。

疲れている。そんなに頑張っていないから悲しいのだが、週6で働き、残りの1日はランニングに捧げる生活リズムが3週間続いている。
今週からは一ヶ月休みなく働くつもりだが、来週は休めるかもしれないし、この体力の無さは休んだほうがいいかもしれない。

あーなんでだろう暴走する私のロゴス。
人とは話しているはずなのになぜ言葉が溢れてくるのだろうか?
1日中整理をされない映像を一日中一人で見ていると誰かと何かを話したい、書きたくなってくる。

蓄積させているのだから仕方がないことだが、なんというのか、自我の暴走?自意識の暴走が起こり、ナルシシズムが湧き上がってくるのだ。極めて内省的になると言っていいのか?映像を見ることで、私の中で、会話をするのだろう。このシーンはどんな意味があるのか?このときどう私は立ち回ればよかったのか?なぜ現場で臨機応変に対応できないのか?
彼らはどんな思いでこの言葉を話すのか?私なら?
私は?私は?と映像が私を詰問してくるのだ。
うまく答えられ、心地よさに浸ることもあるかもしれないのだが、多くはそのたくさん生まれた問いはそのまま頭の中で放置されていく。
いや、一応整理されているのか?

もうすぐ世俗から離れ、どっぷりと私の映像の世界に没入していく今は端境期なのだ。
映像の世界と私の肉体が体験した現実世界での刺激が混ざり合い、えもいえぬ爆発しそうな不安定さが私の体の中で生まれている。

ブログを書いてガス抜きをしたり、音楽を聴いてフタをしながら暴走する自我を押さえつけている感じだ。
思春期か。

仕事をするたびに私は中二病を再発する。だが、ソフトコンテンツのものづくりには中二病の行程が必要不可欠かもしれない。
私の中に眠る中二病の私は大人という冷えた鍋の中で静かにしていて、普段は見て見ぬ振りをできるけれど、仕事で人の人生に触れることで、その冷えた鍋は熱せられて、暴走しそうになるのかもしれないな。