大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

あーそうか、私の中の小さな学歴コンプレックスがくすぐられたんだな

私のクソ読みづらいブログに学歴について書かれたブログ主さんがコメントをくださった。とてもうれしいので、自分としても全力で答えたいと思う。

(全部書いた後ふと我に返ったのだが、そもそもこんな私のつぶやきを普通に考えたらわざわざ読まないんじゃないかという…。さらに最終的に書いて気がついたんだけど、学歴コンプレックスをそもそも私自身が内面化していなければ、件の記事を読もうとすら思わなかっただろうなぁ。)


言及ありがとうございます。ですが、できればコメント欄含めもう1回だけ読んで欲しいと思いました。だいぶ誤解されています。私の文章力のなさのせいですが。 - kanchi_guy_nice_guy のコメント / はてなブックマーク

全てはブレスオブファイア3が教えてくれた - 育て直し(自分を)

言及ありがとうございます。ですが、できればコメント欄含めもう1回だけ読んで欲しいと思いました。だいぶ誤解されています。私の文章力のなさのせいですが。

2016/10/07 18:20

コメント欄を含め読んでほしいということだったので、読みました。

結果、読んだ印象の感想はあんまり変わりませんでしたが我ながら色々言葉が足りなかったんだなと思いました。

 

オリンピックを見ていていつも思うことがある。

「夢は叶う」「努力は報われる」

そう金メダルを手に笑顔で語る。だけど、そのメダルを取るためにその人はどれだけ膨大なひとの夢を握りつぶしてきたのだろう、とありきたりのストーリーに胸糞が悪くなる。

以前運動生理学の学部に運動と心理の関係を取材した際、実はアスリートの鬱は深刻だ、ということをきいたことがある。一般的な文脈で、中程度の強度の運動は鬱に効果的で、運動は万能の秘薬とさえ言われる。だが、トップアスリートで鬱にかかった人は、その秘薬はまったく効果を発揮することなく、ときに、鬱は重度のレベルに達し、自殺に追い込まれることも少なくない。

他人と比較して、競うものは全て必ず多大なる敗者を生み出す。

スポーツ然り、選挙然り。そして学歴然り。

全ての人間が一流大学に入れるわけではない。二流、三流大学だって、親が金を持っていなければ入ることさえかなわない。

子供の頃、同級生は、特別支援学級の子以外は皆同じ能力として扱われる。だが、残念ながら人には必ず得手不得手がある。スポーツの分野ではそれは結構認めてもらえるが、事勉強になると個人差がすべて「努力」の名の下になかったコトにされる。

私が尊敬する人に、学歴に固執して10代〜30代を棒にした人がいる。

死ぬほど勉強して地域で一番の進学高に入り、休み時間も休まず勉強し、絶対トップに立てると思った定期テスト。結果は学年2,30番目くらいに。青春全てをついやすガリ勉なのに、同級生に勝てないと、クラスに居場所を無くし、不登校、ひきこもりに。まともな定職につかぬまま40代なう。という人がいる。その人はめちゃくちゃ頭がいい。めちゃくちゃ喋りが面白い。トークの切れ味が半端なく、その話術に魅了されてしまい、尊敬している。彼の家族が学歴信奉者でなく、彼自身がそのトーク力をいかした道を見つけられていたら…。

あ、違う道にそれていたら、私は彼に出会うことも、尊敬することもなかったから、挫折の道を選んでくれて私的にはよかったんだけど。

 

学歴は相対判断でしか無い。というか社会の価値基準の多くはほぼ相対判断。運動能力、仕事ができる、頭の回転が早い、収入が高い、いい家に住んでる、いい女、いい男と結婚してる、…世の中の価値基準は全て他人がいてこそ。

あ、そんなこと当たり前、わかってて言ってるよってことですよね。ごめんなさい。

 
学歴は、記憶力が強いものが勝者となるだろう。

その能力が低いものは不利だ。

私はおそらく雑な記憶力を持つある種の学習障害を持っていたと思う。そのため、中高と全く英語数学ができなかった。

高1のときに、勉強して望んだはずの数学で100点満点で6点を取り、英語はhobby一つ覚えられず、いつも赤点。
大学でも入って一番まえの席で毎回真剣に授業を受け、予習復習を欠かさなかった中国語はどんなに勉強しても可、可、可。中国語は大好きだったが拼音のスペルが正確に覚えられず、さすがに絶望した。
ざっくりと概要を理解すれば大抵なんとかなる理科とか社会とか国語は勉強しなくても普通以上の成績をとれたし、大学での成績は(中国語以外は)たいてい優だったおかげか、必要以上に自分を卑下することはなかった。だが、当時流行っていたこっくりさんに「高校行けますか?」ってきいて「はい」と言われ、私は絶対中卒になると確信するほど自分をバカだと思っていた。

だが今、自分のことをあんまりバカだと思っていないし、頭がいいとも言ってもらえることもある(左右分かんないし、年号年齢の計算は指で数えないとできないけど)。

 

おそらくは学歴社会のせいだろう。
子供時代成績が良かった人は、子供時代の成功体験を糧に生きていけるだろうが、子供時代成績が悪かった人は自分をバカだと劣等感を引きずり続ける。多くが勉強のできるできないによって心にしこりを作っている。

 

当たり前の話だが全ての人間が同じスタートラインに立っているわけではない。だからといって努力をして学歴社会を勝ち抜いてきた人がずるいと言っているわけでもない。ただ、スタートラインの小さな差異は最上位行くほど意味のある差異になることをちょっとだけ思い返してほしい。

 

努力だけが結果を導き出してくれるのは、健康のためのジョギングくらいなものだろう。だって人間は走るために生まれてきたから。私も走り始めた時、どんどん総距離が伸びた時、筋肉は努力を裏切らないと確信した。

 

そもそも私は、学歴があった方がいいと思っている。自分の年収次第だが(もし子どもが生まれれば)子どもには大学に行ってほしいとも思っている。友人も視野も広がるし、なによりもモラトリアム期間が伸びるし。勉強が苦手だとしても、子どもに学歴を買ってあげられたらそれは親冥利につきるというものだろう。日大レベルでも大学で学んだことはやっぱり面白かったし、一流大学ともなれば、しびれるように面白い研究も多い。ただ、本人が勉強を愛せないのなら、無理に進めないつもりだ。もちろん、勉強する面白さ意義は伝えていくつもりだが、それでも、その人にとって人生に絶望するほどの苦行であるのならば、人生を楽しいと思える道を探す努力をしようと思う。それはお子さんがおられる身であれば言わずもがな、でしょうが。まぁ、子どもがいない私がいっても説得力は無いとは思いますけどね。妊娠できる確証もないし。学歴のない人がいっても説得力がないのと同じ論理でしょう。

(ただまぁ、私の子だから学歴だけじゃ絶対勝負にならないから違う戦術を考えろとはいうと思うけど。)

 

学歴問題にみんな首突っ込みたくなるのは、高学歴も低学歴も学歴コンプレックスをこじらせているのだろうな。

最後に。コメントをくださって本当に嬉しかったです。ありがとうございました。ただ、私は、批判したつもりはなかったのです。いや、アイロニックな表現が多かったから、不快だったかもしれません。申し訳ない。それと、書かなかったけど、精神を病むほど勉強したわけでもなく、高い学歴を得られたのであればその生き方はあなたにとって最適解であったんだろうというのも理解しております。

ただ、ブログを拝見していて、競争社会に打ち勝ってきたからこその、勝者の哀愁のようなものを感じたのです。私自身の中にもある、相対評価の中で一時勝てても、いつ振り落とされる変わらない、いつ見下される変わらない恐怖感を、思い起こさせたのです。(劣等感の塊なので)

それでも、そんな自分の成功体験を強固にするために、敗者を努力が足りなかったと批判せずにはいられない批判精神。自分がどん底に落ちた時、その批判精神は自分自身に向き、徹底的な自己否定が始まるわけです。そこで私は、もう相対評価の世界からは降りて、自分自身を内省と思ったんですけどね。で、このブログで、己の過去や、思いと向き合っている次第で。

それにしても、私のような焦点が定まらないブログを読んでくださってありがとうございました。嬉しいものです。久々に気合入れて記事書きましたわ。

 

関係ないけど、私、ブレスオブファイア3、3つも貼り付けすぎっすね。

人は走るために生まれたの?の詳しくはこちらまで↓