大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

20代、私はたぶん病んでいた

人は人生の中で何回失敗するのだろうか?私はけっこう失敗している。

マジで失敗の頻度が人より多い気がするし、正直、死にたいし、なんでこう、いつもこうダメなんだろうか、と落ち込む。

それでも、20代のころよりは、私は強くなったような気がする。

また今年もそこそこでかい失敗をした。だが、ちょっと不可抗力みたいなところがある失敗だったので、そこまで大きなダメージを追わずにすんだ。だが、ふと、20代の頃の失敗を思い出した。

27歳くらいだったと思うのだが、色々と失敗をやらかして、手が回らなくなっていた矢先、取材相手にキレられたことがある。

キレながらも、相手は対応してくれたが、本当に手が回っていなかったので、私はその取材相手とは電話でしかやり取りしかできず(地方だったから)電話で平謝りをした。

後日、その地方に別件の出張で行く機会があった。私はどうしてもお礼と謝罪がしたくて、その取材相手に会いに行った。

だが、なぜか、謝罪をするはずが、取材相手を前に、大号泣したのだ。

わざわざ時差で挨拶にいった私に対し、取材相手がたぶん「大変でしたね」という、些細な一言を言ってくれたことに、張り詰めていた私の中の何かが決壊した。

必死で涙を止めようとしても、どうしても、どうしても溢れてきて、平静を保とうとしても、涙も嗚咽も止まらず、何も言葉を発することもできなかった。

私の心は、焦りながらも、自分の身体を呆然と見つめていることしかできなかった。そりゃそうだ。初対面の相手の前で、号泣って。私の心は焦りまくっていたが、身体はもう、自動運転モードというか暴走モードというか、完全に、私の自我ではコントロール不可。高ぶる自分自身が静まるのを待つことしかできなかった。

そして、なによりも、もう待とう、と思えたのは、取材相手自身が、ただ静かに、私が泣き止むのを待っていてくれたからだ。

正直いって、めちゃくちゃ恥ずかしかった。もう、その方には二度と会えないと思った。今考えれば、それでもう二度と会わないのは失礼なのだと思うのだが、だからといって、もう10年近く経つのに今更会いにもいけないし、会う理由もない。あれは謝罪の形としていかがなものだったのだろうかとも思う。

 

なぜあの場で大号泣したのか、あそこでなぜ張り詰めていた線が切れてしまったのか、たぶん、本当に色々と限界だったのだと思う。その人は、何も咎めず、何も触れず、私が落ち着くのを待ち、励ますことさえなかった。たぶん、だからこそ、糸が切れてしまった。この人はわかっている人だという安心感が、感情の決壊を招いたと思う。取材相手なのに、すがってしまったようで、自分の狡猾さが恥ずかしかった。

本当に静かに、私が落ち着くのを待ち、静かに送り出してくれたことを、私は心から感謝している・・・からこそ、ちゃんと会いに行くべきな気もするが、まあ、ね。その辺は会う理由もないし。

 

あの頃に比べれば、私はきっと強くなったと思う。自分が弱いことを知ったし、傷つきながらも仕事ができないファック野郎でも、生きていていいとたぶん、どこかで思うことが出来ている。

・・・ああ、書いても書いても何がいいたいのか分からないわ。

だから何なんだ?

でもま、私はあの時の取材相手のように、誰かが壊れそうな時、壊れないように、横たわってこられても、支えてあげられるような木になりたいなと思う。押し返したり、一緒に倒れたりしない、強くて優しい静かな木に。

そう思えるだけ心が回復してきているの、かな?まだあと50年くらいきっと生きなきゃいけないから、もうちょっと頑張ろう。