大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

私は「〇〇」であるという強烈なこだわりがない

私は自分の性別のアイデンティティが希薄な人間だと思う。

自分を女性と思えないし、かといって男性だと思うことは、どうしても違和感がある。

男性である、と主張できないのは、体に男性器がついていないことと、男性ホルモンが優位に流れていないから、と言う理由からだ。だから、女性であることを受け入れているわけでもないし、いわゆる、男でもない、女でもないという、Xジェンダーというわけでもない。自分は本当は男だと強く信じられるトランスジェンダーでさえない。

性別のアイデンティティが希薄、確立していない人間だ。まあ、30歳をすぎてアイデンティティが確立していないというのはまるで思春期のようにとられてしまうかもしれないが、どちらかというと、アイデンティティは一定ではないのだとおもっているわけだが。

おそらくアイデンティティは、使う言語、生まれた地域、性別だけじゃなくて、年齢、子どもがいるか、パートナーはいるか、職業の選択、学歴によって、変わっていくものだろうと思う。

マズローの欲求5段階的な自己実現欲求や、思春期の自我の確立とは少し次元の違う話ではあると思う。

 

それともう一つ、我ながら希薄だなと思うのは、発達障害者ということだ。ADHDと、現在ブログのタイトルは書いていたが、そろそろ微妙な気がしてきている。一時期、私の仲で、ADHD当事者発信が熱かったのだが、(というか、特にコンサータが熱かった)最近はコンサータを使い慣れてしまったし、特に発信することもないので、自分を育て直しに戻そうかなーとか、思う。それくらい、自分のADHDである、というアイデンティティはそこまで強くない。

ネット上で「#ADHDあるある」とか見ちゃうと、「う、うん、でもそれ人類のあるあると言っても過言じゃないんじゃ…?」とつい思ってしまう。

もちろん、ADHDやらASDはその人の人間性や人生に密接に関わるものだとは思うのだが、障害名をアイデンティティに結びつけるのは若干違和感を覚える。

 

自分がすがる、アイデンティティがぱっと思いつくのは、職種だ。

自分が生業としている「テレビ屋」という職種には、かなりアイデンティティを持っているが、正直、これもかなり危うい。仕事をやめようと思ったときに「この仕事をやめたら…私には何も残らない…」という尋常ならざる喪失感に襲われ、まともな判断ができなくなるからだ。

 

 

…あ、もしかしたら、「非モテ」「キモオタ」「陰キャ」っていうものに対しては、強烈にアイデンティファイされているかもしれないな…。

 

どうでもいい?

知ってる、わかってる。だけどな、男には、どうでもいいと思われても主張し無くてはならないことがあるんだよ。

いや、嘘です。はい。どうでもいいです。