大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

思春期の子供を育てるって大変だな―

一説には、精神的な成人は30歳とか聞いたことがある。

20代の若者を見ると、あながち、間違っていないなーと思う。

20代で、10代のうちに反抗ができなくて、社会人になってから、親の反対を押し切って、(というか、親の思い通りにしか行きてこられなかった人生をやめようと)仕事をやめて無職のまま上京してきた若者の話を聞いた。

無職で、働いていた当時の貯金を食いつぶして生きているらしいのだが、存外堅実で、社会性も高いので、まあ、なんとかなるタイプだなという気がするし、大丈夫かなーという変な不安に駆られることはなかった。

だけど、自己愛の強さに、すごい神経を使った。

自分を知ってほしい、自分を見てほしい。100%齟齬なく、自分をわかってほしい!!

という気持ちがものすごく強くて「お、お、重い…」と。

しかも「自分はおかしい、変わっている、普通の人とは違う」という自意識が強すぎて、とても「いや、もーすげーその感覚普通だよ?」とは言えない空気感というか。

言葉の端々に「(あなたにはわからないかもしれないけど)この界隈の人にはわかってもらえるんですよ」と枕詞を付けて語りだす。

 

君の言いたいことはわかるよ。お前が特殊だから、意味がわからないんじゃないんだよ、ただ、君の語彙が稚拙だからいまいち何言ってるかわからないから聞いてるんだ、馬鹿野郎。もっと客観的になれよ。という気持ちがいちいち湧き上がってきてしまった。

ああ、私も大人になりきれていないね。

そういう気持ちを抑えながら、自分が特別だと思う気持ちに水をささないように、肯定をする。

「私も若い時そう思っていた、すごく懐かしい感覚がある」と、喉まででかかったけど、下手にそういうことを言うと「でも、あなたはちゃんと社会人やって云々」と、あなたと私は違うんですアピールに走り出して、話がよくわからんことになりそうだしなーと。

 

自分をわかってほしい、自分を認めてほしい、私は特別、という気持ちが前に出すぎていて、素直な、素朴な言葉が聞こえてこなかった。無自覚な虚栄心に包まれた言葉を、少しずつ解きほぐして、私に対する警戒心を問いて、本当は自信がない、繊細な心持ちを魅せてほしかったけど、まあ、無理だよね。

 

思春期の子供というのは、難しいよな。自我が芽生え始めたばかりだけれど、それが一体何なのか?言葉にまとめきれない。ただ、つまらない大人と同じだと、認められないし、同じだと言われるとむかっ腹が立つ。たぶん、それこそが自立なのだとは思う。

人の成長過程を見ているようで少し、微笑ましくもあり、また応援してあげたいという気持ちにもなった。ただ、繊細なその心と向き合うのは、なかなか難しいものだ。

おそらく、1ヶ月後には、全く違うことを言う出す。それでいいのだと思う。今は、大人や親が与えてくれた価値観ではなく、自分の言葉で、自分で世界を作り直して、しっくりくるものを模索している時期だから。

ただ、私はそんな青年の青春を、取材する価値が本当にあるのだろうか?

迷わずにはいられない。

若者の取材って、やっぱり難しいんだな―。