大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

別に焦らなくてもいいしこのままでいい

親世代に「お金をためなさい」「お料理を覚えなさい」「旦那が金遣いが荒くてもあなたは我慢しなさい」と言われる。

 

正論だなと思う反面、やはりおかしいなとも思う。

理由は簡単だ。あなたがたが若いころとは社会インフラの状況がまるで違う、ということだ。

それを強烈に感じるのは、衛生環境だ。

うちの母は貧乏な家に生まれて、食事も睡眠も勉強もすべて同じ家で過ごした。キッチンは土間。風呂は薪で沸かす。漁師町で、海に行けば不発弾だかわからないが、戦争で使われた玉だか金属が落ちていて、それを売って小遣いにしたとかしないとか。そんな環境だ。コンクリで地面は舗装されていないし、車も一家に一台じゃない。ファズリーズもなければ防虫剤もろくなものがない。のみ殺しにDDTを頭にまいていた時代に育った。

そんな母はすごいきれい好きだ。掃除は苦手みたいで、家は雑然としてしているのだが、家は抗菌グッズであふれている。家に帰ってきたらうがいをしなさいはもちろん、トイレの後は必ずしゃわーで恥部を洗っていたし、お金を触ったら手を洗わないと食事はさせてもらえなかったし、パジャマ以外で布団に入ること、風呂に入る前に布団に入ることは禁止されていた。思い出せるのはそんなものだが、姪っ子たちの母の接し方を見ていると、衛生面で気をすごい使っている。

私は兄弟が4人なのだが、全員アレルギー体質。遺伝的要因もあると言われるが、子供の頃以下に細菌と接点があったかどうかがアレルギーを発症しやすいか影響があるという考え方がある。母の子供に対する衛生観は姪っ子同様、我が子にもクソ潔癖だったに違いない。だって私がちょっと潔癖だもん。(部屋汚いし掃除嫌いだけど)

たぶん、母が育った環境では彼女の衛生観は模範的だったのではないだろうか?中国人の友人は食器棚に閉まってある食器を使う前にかならず洗う。日本では、基本機能洗ったコップは洗わなくてもそのまま使って問題ないが、埃っぽく部屋の中でも靴の中国では、たとえ一度洗っても使う直前に洗わないとリスクがあるのだろう。ただ、日本ではそんな行動は不必要だ。

そんな国家間の価値観の違いが、日本では親子間で起きているのではないだろうか?

日本の家、特に住宅街や都市部は土や木々がなく、非常に衛生的だ。動物も少ないし、昆虫も多様ではない。当然、細菌の数は決して多くない。しかし、習慣として除菌をしてしまう。習慣として雑菌が多いところを忌避してしまう。もちろん、非常に不衛生な環境ならばその習慣は確実に大切だが、世界でもトップクラスに衛生的な街ではそこまで目くじらを立てる必要がない。だが、私達はその生活環境の変化に気が付かず、昔ながら衛生観でもっともっと綺麗にし、体内の細菌の多様性を貧困なものにし、アレルギー体質にしている部分があるのではないだろうか?

 

それと同じことが、経済的な部分でもおきていると私は思う。

戦前、そして戦後十数年、日本は非常に貧しかった。今でも秘境と言われる山間部に行くとその食文化の貧弱さに驚く。郷土料理として出される食品は保存食ばかり。豊かな山や川があっても、稲作などには適さない土地が圧倒的に多く、冬になれば農業もできず、基本的に日本は戦争がなくても貧しい国だったようだ。なんたってこんだけ工業してたって山間部が国土の6割。考えようによっては人が住むにはとても貧弱な土地だ。それでも、数千年という長い歴史で、人口を増やし、農業の生産量を増して来られたのは、この土地に住む人々がたゆまぬ努力をしてきたからだ。

この島国に住むには、努力なしには生きてこれなかった。己を殺し、組織のために生きる。そうやって繁栄してきたのではないだろうか?

だが、今の日本はその努力のかいあって、努力をしなくても餓死に直結はしない。別に手を抜いて生きてもいいはずだ。

しかし、多くの人は、来るかもわからない冬に備え、必死に努力を求め、今お金をためなさい、頑張らないと将来痛い目を見るよ、と葉っぱをかける。

果たしてそうだろうか?たしかに、将来何が起こるかわからないのは間違いない。

だが、国土は焼け野原になっていないし、たゆまぬ努力のお陰で、安定的な農業生産量を上げている。状況は戦後直後、高度経済成長期とは違う。

先人の努力のおかげで、世界最高クラスの生活水準を手に入れた。

努力の渦中の人と同じ生き方はしたくてもできない。

ただ、彼らはそれをしらない。漠然とした貧困への恐怖を抱え、若者を叱咤しているだけだ。

ただ、今恐れる最大の危機は日本の倒産や縁の大暴落、自然災害によるインフラの破壊。

金を貯めておけばなんとかなるリスクよりも、土地や生活のためのスキルを持ち、社会インフラに依存しない保証を得ることではないだろうか?

それは親世代がないがしろにしてきた、あるもので目の前にある無価値なもので、なんとか生活する力を取り戻すことが一番大切なのではないだろうか?


彼らが若い頃生きていた世界と今は違う。当たり前だけど、みんな案外気がついていない気がする。