少しは好転すればいいのだけど
先日、業界の先輩というか、40代の女性ディレクターとあってきた。
彼女も40代になり、ディレクターという仕事をやめた方だ。今は別の道を生きがいにして生きようとしている。私にとってはとても意味のある出会いだったように感じた。
彼女は同じ業界で働く夫と来てくれた。私も、夫の紹介で知り合った人なので、夫を連れて話を聞いた。だからかわからないが、仕事の相談というよりかは人生全般について広く受け入れてくれた。2人がより生きやすい生活しやすいことをしなよ、的な。
なぜか話しの落とし所が、業界を続けるかどうかは別にもう一つ収入源を作る準備をしては、という感じに落ち着いた。
ただ、私は彼女らが突きつけた現実に少しだけ心が戸惑っているように思う。やはり、簡単な世界ではない。と改めてつきつけられた思い。
現実に存在しないものを具現化する、人の人生に寄り添うと言いながら、実は人の人生を垣間見る出歯亀のような存在がテレビ屋だ。どこかメタ視点というか、冷徹な視線が必要で、とても強い意思がなくてはならない。
私は今何よりも彼と2人で協力して家族を養うというものが第一義だ。その上で、テレビという仕事が本当にしたいのか?そんなものをつきつけられたような気がした。
心の何処かで、やっぱりやりたい気持ちもあったりして、私という往生際の悪い人間を思い知らされている。
精神的に不安定になっている後輩ともあったばかりだ。テレビ屋として生きることは、ある種の割り切りが必要なのだろう。それが何かはわからないが。
ただ、唯一救いだったのは、うじうじしている人はドキュメンタリストには向いていると言われた。人の心に共感できるには、うじうじしていないと、という事のようだ。
どんなドキュメンタリストもからっとした人はいない、と経験豊富な彼女は語っていた。
ドキュメンタリストになりのか、と言われたらわからないが、人と寄り添い誰かの救いになるものを作りたい、それがNPOなのか、テレビ屋なのか出版なのかわからないが。
ドキュメンタリストとして、もう少しうじうじしながら、もうひとつの収入源を作る準備をしていいのだと、彼と話ができていなかった部分を、彼らとの話し合いを通してできたような、感じだ。
私は度々実家の夢を見る。私にとって、少しずつ、自分の中の家族とケリをつけている示唆のような気がしているものだ。
その日の翌日見た夢は、実家の水回りの掃除だった。水回りになぜかぎっしりと昔のものがつまっていた。子供の頃使っていたであろうお弁当箱、おもちゃ、同じような古い調理器具、高校時代の出し物でつかったであろう紙、学年とクラスと名前が書いた袋(記憶と正しいかどうかよくわからない)そういうものを分別して捨てた。これは使えると残したりもしながら、ゴミは4、5袋くらい出ていた。
整理が着いた部分があるのかもしれない。関係ないかもしれないけど、少しだけ今やりたいことがわかったような気分がしている。