大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

処女のままじゃ死ねない

昔から私は早く死にたい、早く晩年になりたいと思っていたクチです。
もちろん、厳密に死にたいのではなく、この辛い世の中から逃げたい、という気持ちです。
が、ふと思い出したことがある。
そういえば、とはいえ、処女のままでは死ねない。一発やってから死にたい。
子供ながらにそう思っていた。
私が生まれ育った静岡県というところは、もう長いことずーっと東海地震に備え続けている県だ。
子供の頃から震災が他県で起こる(伊豆群発地震も含め)たびに明日は我が身と、気持ちを引き締めてきた。そんな中、よく話題に上ったり考えていたのが、震災で死ぬならどれが一番楽だろうという妄想。
やはり、一発で即死できるのなら家具による圧死か、はたまた富士山噴火の土石流に飲まれるのか?津波か?当然どれも嫌なのだが、最もましなものはどれか、子供ながらに思いを馳せていた(不謹慎に思われたら申し訳ないが、それは希死念慮というよりも、どこにいたら、どこでどう逃げたらいいかをシミュレートの一環でもある)
そんな地震によって人生が突然幕を閉じることになる想像をしたとき、最後の最後に引っかかったのは
私、まだ処女じゃないか!処女のまま死ぬのか?
ということ。
まだまだ昭和とバブルの残り香が残る90年代に少女時代を過ごした私は性行為の具体的なことは何もわからなくても、それが気持ちがいいものだとはわかっていた。そしてどこかそれが特別なことであることも同時に理解していた。
社会的に学ぶことなのか、生理的に知っていることなのかはわからないが、もはや処女ではなく、しかも姪っ子(自分の仮想の子供)をみてしまったからか、10代のころの、処女で死ぬとか無理っ!という明確な死への拒絶感はなくなった。
いや、死にたくはないんだが、まぁ、30年も生きれば江戸時代の人の人生分くらいは生きたかな、と思えるというか。
もちろん単純に10代で死ぬとか私かわいそすぎる!みたいことも考えた気がするが、性行為の経験があるかいなかって実は人間にとって、生きることと結構繋がっているんじゃないかなと。
なんとなくそんなことを思った。