大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

頭が悪すぎる私

ちょっと前かな?堺雅人が左右が分からない、計算が全然できないと話題になったようです。

www.narinari.com

堺によると、右と左は「今でもわからなくなっちゃう」とのこと。例えば車の運転をしているときに「そこ右に行ってね」と言われるとダメだが、「こっち行ってね」と指で指示されれば分かるという。

また、タクシーに乗って「そこを右」というように指示する場合には、そろそろ曲がる、そろそろ曲がると思いながら「(事前に)練習する」。じっくり考えなければ、右と左がわからないそうだ。

 

世の中には、こんな人がいるということは知っておりましたが、芸能人にこうやって言っていただいて、やっと認知されるって感じなんでしょうかね。

まあ、これ、私もそうなんですけどね。

タクシーで左右を間違えないために、毎回必死で、シュミレーションをしています。口に出す前に。で、たまに間違える。

ただ、この感覚って普通の人には全然分からないらしくて、何度口頭で説明しても、全く伝わらない「ただの怠惰なんじゃないの?」「バカなの?」と言われる。

ネットでの反応↓

堺雅人「右と左がわからない」、「計算が全然できない」ことも告白 | ガールズちゃんねる - Girls Channel -

ネットの反応でも、意味が分かっていないんだろうなというものがあった。

たぶん、左右の概念がない意味が分からないのだろう。方向感覚がない訳でもないし、東西南北も分かる、地図も読める、立体の感覚は普通にあるのです。一度覚えた道は忘れないし。「右」と「左」という概念がピンとこないのです。

たぶんだが、目の前に広がる空間は人並に把握できるのだけど、言語表現として、それを「右」「左」とスムーズ表現にできない、認知できないだけと思う。

あと、ヒラメとカレイの違いがわかりません。顔の位置をちゃんと覚えれば、たぶん大丈夫だけど、右とか左とか言われると、処理できない…。正面を向いたときに

左手の目の前に顔がくるものがヒラメ、

右手の正面にくるものがカレイ、

と。映像化すればなんとなく分かるけど、文字情報だけだと、ちょっと…我ながら難儀やな…。

 

ただ、左右が分からない人は一定数いて、脳幹が太いから左右の概念があやふや、という、真偽不明な情報を聞いたことがあったので、あまり気にしたことはなかったです。が、堺さんは計算も苦手だそうで。


また、「計算が全然できない」ことも告白。足し算、引き算ができず、かつてドーナツ屋のバイトでレジを任されていたときは多めにおつりを渡していたようで、〆のときに1,000円単位で数字が異なっていたこともあったそうだ。

まあ、私はレジ打ちで〆の時に10,000円単位で数字間違ってたがなっ

↑えばるな

算数ができなくて、100満点で数学6点とってましたからね…。今も数字が苦手です。消費税は5%か、10%じゃないと困る。8%だと計算がもはやできません。

算数ができないのは、きっと学習障害だったからだと思っていましたが、この記事によるとそうではないかもしれませんね。

news.livedoor.com

「それはゲルストマン症候群かもしれませんね」と話すのは、総合診療科を持つ大阪の「上本町わたなべクリニック」の渡邊章範先生。

「神経学者のヨーゼフ・ゲルストマンが発見した病気ですが、症状としては、人によって程度の差がありますが、左右がわからない、計算が苦手などの症状があります。脳内に病変が存在することによって起こると考えられている神経疾患です」

人の名前を呼び間違えるのもも関係あるのでしょうかね。親族の名前を呼び間違える我が家の家系だと思いますが。(人の名前を間違えるのは我が家では平素のことすぎて誰も失礼とは思わないのだが、なんか世の中の人は名前を間違えられるとすごい怒るようですね☆)

我が家は、発達障害っぽい気質の人がすごい多いので(多動、アスペルガーっぽいとか)、脳がちょっと普通じゃないのかもしれません。

 

ただ、私は、暗記や数字が苦手だったからこそ、理屈や論理から覚えないと理解ができなかったからこそ、今があるのかな〜と思う。別にろくな人生でもないし、大学も日大なので、二流大学なのだが、まあ、自分の能力にそこそこ満足をしている。バカで一つのことを習得するのに人の2倍も3倍もかかる分、その分、人よりもちゃんと理解できている(と思う)から。まあ、希望的観測ですけども。

裏付けになる話はすっかり忘れてしまったが、バカだから、不器用ながらも生きてこられたのかな〜と思う。

バカだから、様々な自分とタイプの違う生きづらさを抱えた人の気持ちに寄り添おうとできるのかもしれないし。