大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

「諦めがつく」のはやり尽くした証拠かもしれない

20代半ばごろ、40代前半の女性のブログを見た時その方が「40を超えて諦めがついてきた」という旨を書いていた。
その当時、ああ、年齢を重ねると、人は諦めてしまうのか、私はでも、まだ諦められない、諦めたくない。貪欲に生きたい…と感じたものだった。

 

だが、現在32歳。
私自身が20代女性に「30代はいいぞー、諦めがついて楽になった、人と同じ生き方をしようなんて思わなくなった」と語るようになっていた。

 

私は、あの時反発した40代女性のブログと同じ言葉を使っていたのだと、ふと気がついた。
40代女性がブログの中で書いていた、諦めとは、決して失意の意味ではなかったのだ。
「諦め」とは「やり尽くした」から「着けられる」ものなのではないだろうか?

 

以前、何かで、諦めとは、明らかになることを語源にしているという、旨のものをみたことがあった。目の前が明るくなるのこと、視野が広がること、それこそが諦めと同義なのだ、と。

私は釈然としなかった。私にとって「諦めないこと」それこそが正義だったから。

諦めないことは、戦うこと。

結婚も、子供も、仕事も、諦めない、テレビ屋として一流になる、テレビ屋を続ける…優秀なディレクターとして認められる…それを諦めない、諦めないからこそつかめるのだと。

20代は可能性に満ちている。これからどんな道を選んでいってもいい。だからこそ、諦めてはいけないのだ、と。

だが、実際は違った。可能性に満ちていることは、そこには道も、何もないということ。

やればやれほど、可能性は狭められていく。だが、その分、逆に道は開かれていくのだ。諦めるということは、目的を絞っていくことそのもの。

様々なことに挑戦しないことには、諦めはつかない。

 

未婚の状態であれば、どんな男とも結婚できる可能性はある。

無職であれば、どんな仕事につける可能性はある。

だが、可能性が多ければ多いほど、選択に迷い、心は不安定だ。

絞れば絞るほど、諦めれば諦めるほど、進むべき道は見えてくる。

「諦めるな!」その言葉の最も本質的な部分は、試すべき、可能性を潰す前に、仮定で却下することを指すのだろう。それは結局的に、諦めがをつけることができなくなってしまうから。

諦めをつけるために、やりつくす。大切なのはそこなのだ。諦めない、戦うこと、それは、諦める、捨てるべき選択肢を探すことなのだと思う。それこそが、楽に生きるということなのだと思う。

 

私は、見る人によっては家柄も良くはなく、教養も学歴もない、ギャンブラーの男と結婚し、正社員という道を捨てた。社会保障、将来のことを何も考えていないバカ女だ。だが、それでいいのだ、そうとしか生きられないことに気がついたから。
そんなダメ男が最良な男だと私は他の選択肢を自ら捨てる事を選んだのだから。

 

私はあまり過去「ああしていれば…」とは思わないタイプなのだが、あの苦しかった、頑張ることがいい事だと信じたがっていたあの頃の自分に言いたいのは、その「諦めない」ことは「何かを諦めようとする自分の決断から逃げるための口実なんじゃないの?」ということ。諦めないという選択からの逃避をしているのではないのか、ということ。

決断の先送りは、諦めきれない思いを産むだけだから。

 

あんまりまとまらないはなしだな。