知性への憧れ
自分に知性がないなぁーと思う瞬間がある。多々。それは、教養が欲しいと思う瞬間があるから。
私は文学作品が読めない。
かといって高尚な思想書も読めない。
柳田國男は恐ろしくつまらない。あんな論理性の欠いた本、妄想か、文学か、科学か、微妙なラインの文章が一体何がいいのか、わからない。総じて、民俗学界隈の文章は結論が端的ではなく、あまりにもロマンチックで虫唾が走るし、読んでてワクワクしない。
もちろん、仮説には大いに心躍る一節もあったりするのだが、ついつい、
で?結論は?根拠は、証拠は?
と、読んでてイライラしてしまう。
社会学は難しい。基礎研究のように、環境を単純化することができない以上、推論は推論のまま終わらざるえない。
ただ、読んでて眠くなってしまう、飽きてしまう己の落ち着きのなさ、教養のあささにはうんざりするのである。
私に文学を愛せる知性があれば、もっともっとより多くのことを学ぶことができたに違いないのに。残念極まりない。
私は頭脳労働者で、頭を使って生きることしかできない人間だ。だから決してバカではないとは思う。
だけど、ガテン系の人間がみなパーフェクトにナイスバディかと問われれば、決してそんなことはないのと同じで、頭を使って生きるしかない私だが、結局おつむの弱さは未だ課題であり続けている。
ああ、頭が良くなりたい。
もっと本を読めたい、もっと知識と教養が欲しい。