大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

アバズレの正体

先日あまりのことに勢いで感情的に書いてしまったブログ

 

mangobus.hatenablog.com

 このスポーツとは、ようはランニングである。ランニングの距離を伸ばすために、ランニングをする知人♂(A)に走り方を教えてもらううち、週に1回一緒に走るようになり、Aの友人♂(B)も一緒に走るようになり、Bの所属するランニングサークルに私が顔を出すようになったところでBに「あなたの態度はフラットすぎて、オレやAとできていると思われても仕方がない、あなたの干渉しあわない夫婦関係や、結婚しているように見せないあなたの態度を改めたほうがいい」と言われたのだ。

実際Aとは「Aさん、ちゃんまるのこと好きなんじゃ?」とか「Aさんとできているんでしょ」と言われることはあったが、Aは未婚だし、私もなんとなく「Aとはできているわけないし、できていると思われてもネタになって面白いからいいや」くらいに思っていたのだが、Bは既婚者で、そもそも私自身が気をつけて距離を取っていたので寝耳に水だったのだ。

 

私はそもそもネット上、リアルともに結婚しているということをあまりおおっぴらにしない。私がのろけだすと、愚痴がなくただただ「うちのダンナは世界一」「うちのダンナは非の打ち所がない」「彼がいるから私は私でいられる」という欧米人もびっくりの絶賛しかできないため、本当にガチの幸せで自慢になってしまい「こいつうざい」という顔しかされない。思っていないことは言えないたちなので、夫に対して謙遜できない。(まあ、ハゲてるというのは言えるけど。)

「夫の悪いところ見えないとかむしろバカなの?」「依存してる?」みたいな感じの雰囲気になってくるのが嫌で、あんまり言わない。あと、本当に幸せなので、本当に恥ずかしい。(あとやっぱり女か、みたいにみられるのが嫌、とか、嫁って言われるのがいや、とか色々あるけど)

 

「結婚している感じないですよね」「生活感ないですよね」と言われると、私としては、夫に依存しない、束縛されない自立した一人の人間、と言われているような気がして、とても嬉しかったのだが、それは

「実は夫婦仲が冷えきっている、後ろ暗いことがあって、夫のことを隠している、性的に奔放な女」というニュアンスを感じる人もいるらしい。

衝撃だった。妙齢の既婚女性は男に管理されているのが、美しい姿だと思われているのか、と。そういえば、結婚すると女性は外で遊ぶことを自粛することを求められることがあるのではないだろうか。

 

ケイクスの記事でこんなものを見つけた。

スー やっぱり32歳くらいでみんな結婚を考えるんですね。

兎沢 気づいたんですよ。一緒に遊んでた友達が減ってく、あっそろそろ結婚……って。

cakes.mu

 

結婚をした女友達とは一緒に遊びづらい。たしかに、ある。私も既婚女性の友達とは疎遠になってしまった。未婚の友達に結婚報告をしたら「ちゃんまるも結婚か…」と寂しがられたことがあった。(が、結局結婚した今もお泊りでお互い遊んりしているので結婚とか私達は関係ない)

結婚ってなんだかやはり就職と似ている。結婚したら、遊びは自粛しないといけない、就職したら昇進していかないといけないように、子どもを生まないといけない、とプレッシャーがあり、就職したら仕事中心に私生活を犠牲にしないといけないように、結婚したら夫中心に私生活を犠牲にしなければならない。

 

ニートと、負け犬は似ている。負け犬たちには、目に見えない圧力がある。結婚しないと、子どもを産まないと。だけど、結婚は、今や就職よりも難しいのだ。就職は転職が許される、だけど、女が離婚をすれば、男以上にさまざまな点で窮地にたたされる(就職とかも含めて)。

ニートは問題なのに、負け犬は一見経済的に自立しているように見られるからまるで問題ないように見られる。でも、実際には、女性が一人で暮らしていけるほどの収入源を得ることはものすごく大変で、一人でいる女性は倫理的な眼差しで社会的制裁が降りかかり、生きづらいのだ。だけど、それが、なんなのか分からない、見た目的には生活できているから、問題ないよう、社会の問題ではなく「男を見る目がない」「理想が高すぎる」という個人の問題とされてしまうのだ。

 

未婚ならば貧困、自分、家族、社会から降り注がれる結婚しろという無言の圧力。未来への不安。

既婚なら、個人としての意思決定を許さない、家族、夫に従うことを求める社会からの無言の圧力がある。いまや自分を殺したところで、経済的安定さえも得られない。

 

夫を立てて、夫の愚痴をほどよくいい、夫以外の男性(時間帯によっては女性も)との交流を避ける。それが既婚女性への漠然と漂う圧力なのではないだろうか。

でなければ、週に1度ランニングだけをする男性たちと「あいつらのどっちかとちゃんまるはできているの?」とあらぬ疑いをかけられることはないのではないだろうか。もちろん私のフレンドリーすぎる態度がまた疑わせるのかもしれないけど、ボディタッチがあるわけでもないし、勘違いさせるような言動をしているわけでもないのに。

そこに違和感があるとすれば、「夫がいるのに、その夫は妻であるちゃんまるの行動に一切干渉せず、妻(ちゃんまる)もまた夫のことを口にしない」というところに

  • 夫がいる=恋愛をする気がある
  • 夫がいるけど夫のことを言わない、夫の干渉に困ってもない=もしかしてうまく言っていない?
  • 夫がいるのに、行動範囲がめちゃくちゃ広い=性的に奔放?
  • 夫がいるのにどんな男の人と普通に接している=実はたまってる?セックスレス

的な発想があるのではないだろうか?一見関係がない2点が繋がるのは、既婚女性は夫を立て、夫の許諾を受け、極力夫以外の男性とは接点を持たないように努めるのが貞淑な妻、という固定概念がからではないだろうか?

特に、性的に奔放で、妻がありながらも不倫をすることに積極的、昔ながらの男女観を持ち、女性にマウンティングすることでしか自尊心を保てない不安定な男性には、容易に上記のような方程式ができあがってしまうのではないか?

事実Bは女癖が悪く、Bの嫁は、過干渉で、夫のケータイやSNSをくまなくチェックするタイプの女性でもある。

 

Bのことは、人として好きではあるが、男としては「こんな女をバカにした男とよく結婚しようと思うよな」と感じており、Bの嫁に対しても「ここまでパートナーを束縛する人とよく結婚できるな、どんだけ信用ねえんだよ」と思い「いやーうちの夫婦は本当すばらしいな」と思っていた。(どうもBの嫁に私とBが付き合っているんじゃないかと思われているのがことの発端のようだ。Bは予防線のために嫁と私を合わせている)

 

なのでBに「あなたたちの夫婦関係もう少し考えたほうがいいですよ」と思われていたのは驚きだ。

Bカップルと私達では、方向性が真逆だからこそ思うことなのかもしれないが。

 

夫に縛られず(悪く言えば家庭を顧みず)、自分のやりたいことをやりたいようにしている既婚女性である私は男尊女卑(昔ながらの倫理観)の強い人からすると(性別問わず)奔放なクソビッチと思われているんだなーとしみじみ思った。そしてそのだらしないビッチを管理することができない甲斐性のない男、と夫は思われるのだろう。

もちろん、そんな連中の眼差しを気にして、私は自分の行動を変えるわけにはいかない。自由奔放であるために、パートナーを裏切ることをしないと、私は自分自身を縛っているのだ。他者のまなざしなんかに気をもんでいられるほど、私に余裕はない。私は夫と自分が、心地よく生きられるために、全力で生きることしかできない。