働くために生きているのではない、人生を楽しむためにあるのが仕事のはずだ
昨年から徐々に増えていった仕事量とプレッシャーが爆発したように1月はほぼほぼ一つの仕事に心身のリソースを奪われてしまった。
残念ながらその仕事の規模は、かなり安い。こんなに良心的な価格設定で、誠意を尽くしているのに。まだちゃんと計算していないが、作業量を計算したら確実に赤だ。なぜこんなに尽くしているのに文句を言われないといけないのかと、本当に悔しい思いをしているが、私は3次受け。先方は元請けにたぶんかなりの額を支払っている。
クライアントに「高い金を支払ったのに」と言われても元請けは文句は言えないのだ。3次受けの私たち現場がただただ割を食う。
終わらない修正依頼、連日なぜか増える修正依頼。ころころ変わる方向性。厳密にはまだ終わってはいないが、納期に縛りがある仕事のため、もうすぐ強制終了させることができる。もしこれが納期の縛りがなかったら地獄の所業だった気がする。
今回の仕事はあらゆる反省点を感じたが、だが、やはり正直
「社会の多くの人はこんな不毛な働き方をずっと続けているのか…」という点を痛感させられた。
もちろん、サービス業、現物ではなくコンテンツ制作である以上、成果物に明確な良し悪しはなく、仕切り(フロントに立つ営業マンとクライアント)次第で仕事のきつさは変わってくる。今回は正直、仕切りの部分が初動から失敗していたと今になって思う。
だが、問題点はそこではない。
なんで金のためにここまでやらなきゃいかんのだろうか?というところだ。
最近、ずっと頭を支配していたのは、「金を稼がなきゃ」「夫がフリーでやっていけるくらいの年収を手に入れないと」「ローンを払わないと」「効率よく仕事して年収をあげないと」ということばかりだった。
だが、世の中の人が「効率よく、作業時間少なく金を稼ぎたい」と思っているから、皆が皆ビジネスモデルをこねくりまわして、物が溢れているのに、物を買わせることで、内需を増やして、経済の循環をさせようとしている。金を使わせようと、全ての人のつながりの間に金銭のやりとりを潜り込ませようとしている。
結果、人は孤独を金で解消しようとして、不要なものに金を使い、どんどん貧しくなってやいないだろうか?
私自身も夫や家族を救う手立てを金に頼ってやしないだろうか?金にソリューションを求めすぎやしないか?
なぜ仕事を始めると仕事ばかりで他のことができなくなるのか?もちろん体力がないというのはある。要領が悪いというのもある。だが、圧倒的に1日の大半が仕事に取られるというのはいかがなものなのか?
人類の本来の仕事は死ぬまで健康に生きるということではないのか?それを主目的と考えると、金銭を稼ぐ仕事など余暇にすぎないはずだ。
お金だけに依存しなくても、健康的に生きる方法はあるはずだ。
なぜ仕事という余暇に人生のリソースを奪われなくてはならないのか?しかも、本人が嫌だと、しんどいと思っているのに。
こんな出口の見えない労働環境ではこの国はダメになる、私自身がダメになると、震災を機に、仕事を辞めて、自分だけでも、自分の家族だけでもこの「金を稼ぐ使うの無限地獄」から脱する道を模索しようとしたはずなのに。気がつけば同じ無限地獄の入口に立とうとしている。
こんなことをするために、私は仕事を辞めたわけじゃない。ちゃんと答えを探さなくてはならない。目の前の仕事、金に惑わされていてはダメだ。
家族を、夫を、自分を幸せにするために。