大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

新婚に苦言をいいたい既婚者

この虚無感とこんなものが世の中に出回ってはいけないと思う気持ちはなんなのだろうか?

cakes.mu

ケイクスの恋愛泥沼系インフルエンサー(推測)の2人の対談で、2人が恋愛結婚至上主義をぶち上げている。

そこまで好きにならないと、結婚はできないという呪いを世界に向けて発信しているようで末恐ろしい。

私が読んだ印象として、2人は共通して、

  • この人なら結婚したい、結婚してもいい人と出会えたから結婚した
  • それ意外の相手はそこまで思えなかったから結婚に至らなかった
  • 結婚する前にとことん色んな人と遊び倒したほうが良い

というようなことを言っている。まったく目新しいことは言っていないし、新婚ののろけ話そのものだ。

もちろん、愛のある結婚は素晴らしいし、そうであっていいと思うけど…そこまでの人じゃないと結婚相手にする価値がない、そこまで思えない人は遊びまくって捨てていいと言わんばかりの雰囲気で、ちょっと不愉快だなーと。

自分は選ぶ立場にある立場になってる上から目線も腹が立つ。交際は結婚相手を探すための選考会でも試食会でもないだろう。人の人生をなんだと思っているの?と問いたくなる。

 

そう思うのは、私の中に非モテがいるからだと思う。ここでいう非モテというのは、自分に選ぶ権利はなく、選ばられる側にいるという感覚。だから、2人のように、「だからこの人を選びました!」と言われるとどうしても「だから私は選ばれない」というすねた気持ちが湧き上がる。

もちろん、私も既婚者なので、相手を選んだ理由的なのはあるんだけど…私は付き合う相手=結婚相手、セックス1回=結婚という感覚を常に持ち続けてきたから、別段「この人だから結婚したい」なんて思ったことはない。好きになったら付き合いたい、結婚したい。

恋をする相手に対して、それは誠意がなさすぎやしないだろうか?というか、逆かもしれない。結婚というものがあまりにも理想化されているような印象が、結婚願望がある読者を不幸に陥れているような気がしてならないのだ。

既婚者ならわかると思うが、結婚は生活そのものだ。恋だとか、愛だとか、好きだとか以上に一緒にいて心地よい、相手の生活やリズムを慮ることがなによりも大切なことだ。

2人が語っていることは新婚の舞い上がりばかりで、生活共同者について全然語られていない。トークテーマを恋愛にしぼったのかもしれないけど…文章をそのまま受け取ったら、結婚は息苦しいものになるし、結婚してみて「これじゃない」感じが募るのではないだろうか?

結婚も恋愛も交際も、同じ「パートナーとしてどうか」基準で考えるべきだと思う。

どんなに外で遊んで「もういいや!」と思ったって、10年、20年、30年と同じ人と暮せば、どうしたって飽きるし、どんなにセックスの相性がよくったって、他の人が気になったりしてしまう。好きだから、この人しかいないから、なんて基準で選んだって結局遊ぶ人は、遊ぶよ。生活である以上、必ず飽きは来る。

遊び倒してから結婚なんてしなくていい。遊びたいんだったら結婚してからだって遊んでも良い。結婚は特別じゃない、生きる延長線上の出来事でしかない。結婚は、周りが2人を公的に認めてるだけで、本質的に2人が変わるわけでもないんだから。