ASD傾向を感じる自分の特性
最近、発達障害に完全にフォーカスしたブログになってしまった。
先日、Twitterで、こんなものが流れてきて、納得してしまった。
子供のうちにADHDと診断された人は大人になると治ることが多く、一方大人になってからADHDと診断された人は子供の頃は実はADHDではなかったことの方が多い、という研究報告がある。子供のADHDと大人のADHDは全く別の病気ではないかと疑われるのだ。大人のADHDは「発達障害」ではないのかもしれない
— ultraviolet (@raurublock) 2018年5月26日
我ながら少し発達障害やADHDに気持ちを寄せすぎではないかと感じるところがある。本を読めば読むほど、そこに書かれている人々の困り具合に比べれべ、私はここまで困っていないな、と(失業にも繋がりかねない人生の大損害を年1で起こしているので、困っていない訳では無いのだが)
現状、解決策やADHDを原点とすると納得するものがあった。
ずっっっっと悩んできた体のだるさや朝起きられないこと、不定愁訴に、解決の糸口を見いだせたようで、私は興奮しているところがある。
これで、事務仕事のミスが減るかもしれないし、出禁になるような大チョンボに繋がる凡ミスをしなくなるかもしれない、本を読むのも書くのも楽になるかもしれないし、朝起きて死にたくなることもなくなるかもしれない。(朝起きて死にたいというのはこのまま永遠に起きたくない、いっそ死にたい、なぜ私は生きているんだろう、なぜ会社に行かなくては行けないのか?とかの重めな逡巡が毎朝ひどい)
体が重くて諦めてしまっていたあれやこれやもできるようになるかもしれないという、我ながら少し過大に期待しすぎだなとは思うが、それくらいの可能性を私に見させてくれている。だから私にとっては発達障害なんてなんだっていいのだ。
そんな最近の自問自答の中で、ADHDでは説明がつかない、ASDと仮定すると合点が行く特性、過去の体験に気がついた。それは聴覚、光への感覚過敏だ。
ASDを疑う①聴覚の感覚過敏
ひとつは音に対する感覚過敏だ。私は子供のころ、難聴を疑われ、病院にかよっていたことがある。私の物心ついた頃の記憶では、音の検査ではなんの問題はなかったのだが、それにしては、どうにも人の言葉がよく聞き取れなかった記憶がある。音は聞こえるのだが、言葉が聞き取れなくて、テレビの音とかをガンガンにあげちゃうとか、喋っている内容の音がどの言葉を言っているのか分からない。
畳屋をタピオカ屋と聞こえてしまったり。これは昨日の聞き間違えだが、こういう、音だけに頼ったら全く文脈に沿わない音に聞こえてしまう。というか、言葉が認識出来ないのだと思う。
言葉のリズムや音の高さは覚えていられるのだが、言葉として形をなさないから、頭の中で探し治さないといけないのかもしれない。だから、似たようなリズムやアクセントの類語を間違えて引っ張り出すのかな。
にしてもタタミとタピオカはひどいな。
だから、前後の会話や状況を見て、意味を考えるのだが、子供の頃はこれが多かった。あ、みんなもやってる事かもしれないけど。
テレビのバラエティ番組は声が聞きとりずらい。BGMや笑い声が邪魔で。ドキュメンタリー系の番組でも、テロップがないと音が聞き取れなくて、きついことが多々ある。今でも音が多すぎて民放を見ていると疲れてしまうことがある。いや、バラエティ番組は昔から大好きではあるのだが。
子供ながらに、難聴を疑ってかかっていた。人の言葉以外はどんなに小さい音でも聞き取れていたからだ。子供の頃からの癖と半分趣味なのだが、家にいながら外の音を聞いて周囲の様子を伺うところがある。幼馴染の家は今帰ってきたか、お隣の家の車の音だ、これは誰さんの歩く音だ、これはあの家の砂利の音…音を聞いて近所の家の生活リズムや、我が家への来訪者の様子を確認するのだ。というか、よほどなにか集中していないと音がする度、この音はなんの音か?と気になってしょうがなかった。
一方で大きい音は苦手だ。朝、目覚ましのアラームは聞こえた瞬間に消す。着信のバイブの音さえ不快に思う。ともかく、突然の大きな音を聞くとパニックになる。
低速で車移動中、窓をあけてと言われたのに、ほかのことに気を取られてて、車の窓の開け方がわからなくなって、ドアを開けてしまったら、ドアが開ける時の電子音やら、周りの人の怒号やらで、さらにパニックになって、ドアを閉められなくなった。意味がわからない失敗ですよね。ええ、そういう「なんで、そんなことが、起こり得るの?」ということを年1でやってるんです。
ASDを疑う②光への敏感さ
どちらかというと、子供時代から連続しているのは音に対する感覚過敏。
最近、自覚したのは光に敏感だなというところもある、それは加齢による眼球の弱体化な気もするが、地方在住であったことや、LEDライトの開発前であった幼少期はそこまで光を煩わしく思わずに済んでいたのかもしれない。東京に出てきた最初の夜、街頭の明かりが眩しくて、ガンガンに目が冴えてしまった。なんで、家の前に街灯があるんだと、震えた。これは上京民あるあるな気はしますがね。
でも確かに子供の頃から日光は少し苦手だった。日中はよく見えなくて、カメラで撮った絵の方がいいや、とか思ってたり、小さい頃から夜の方が得意だったことを考えると、眩しいという感覚が強かったのかもしれない。(最近感じるようになったのは華麗ではなく、週末外で活動する機会が増えたからか?)
ASDを疑う③映像に対するこだわり
記憶の仕方、とも言える気がするが、私はおそらく映像でモノを覚える傾向がある。
地理感覚が優れた人間だと長らく思ってきた。理由は1度通った道は早々忘れないからだ。だから1度通ればあまり迷わないし、よほど方向感覚がヤバい状態になっていなければ絶望的に迷うことは無い。
しかし、どうやら、私のこの能力は地理感覚、方向感覚というものではなく、見た景色を忘れないだけなんじゃないかと気がついてきた。
以前、千葉の外房を散策していた時に突然「この道、通ったな…」という感覚に襲われた。それで、記憶を掘り返してみると、3年くらい前に友人宅を訪ねた際にその道を通ったのだ。あの時見た看板の1、看板の色、描かれている絵の形、道の曲がり方…その道を通った時は夜だったが、街頭のない山道の寂れた看板とどこに繋がっているか想像しにくい曲がった道は妙に頭に残っていたのだと思う。
道を通ると突然と、記憶の映像と目の前の景色が符合することがある。
もちろん、似たような景色では記憶が間違えて結びついてしまうこともあるのだが、情報としての記憶は映像記憶が強いように思う。
それを感じたのは、借金玉氏の名刺の記憶方法のハックを見た時だ。
彼は名前を顔を一致させるためにあだ名をつけるという。出たよ、私がいちばん苦手な覚え方。あだ名だけ覚えて名前忘れるんだよ。
顔を覚えるのはそんなに苦手じゃない。たぶん、あのネタの時にあった、季節はまださぶかった、あの駅の、あのホールであった、あの席に座っていた、青と黒が印象的な名刺あの人、あの名刺は…とキーワードを探して、思い出せる。
名前に関して一番いいのは漢字を覚えることだ。もしくはひらがなでもめもる。名刺のあのレイアウトのあの辺に書いてあった文字は…清と水…清水か。
めもることで音は形を伴う。ノートのあの辺に手書きで書いたあの文字…たかはしか、とか。
ただ、漢字を覚えていると、漢字の順番を間違えたりするから、村松、松村など、ちょっとどちらを前にしても成立したり、音も、フォルムもそこまで離れていない漢字の連続体は本当に覚えられない。
こうやってみていくと、映像業界に固執してるのはもはや必然な気がしてくる。音が気になって仕方ない、文字や音や概念よりも映像記憶が強いなんて。
色々思い返すと、ADHDは母方の性質が強く、ASDの性質は父方が強いような気がする。いや、2人ともどちらも併発していたような印象はあるのだが。
自分の知覚を丁寧に解きほぐしていく…なんだか、アスペルガーの綾屋先生の本のようだなぁ。
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