ADHD当事者意識を持ってはじめて気がついたクソバイス
女性のADHDの本やら、アドバイスはどうにもクソバイスが多いような気がする。
朝日新聞の臨床心理士の女性のADHD向けの記事を読んでいて「これは…本当にADHDの人に向けて書かれているのかな?」と思ってしまう。
自分のことをADHDだと思いこんでいる自己肯定感の低い、あるいは、適切な学習の機会を逸してきた人向けの間違いではないだろうか?
まず、そんなふうに疑問をもったのは、2番目の女に安住している記事を読んだからだ。
これまでのリョウさんは、自分のことを「かわいそう」だと共感してあげるどころか、「私はいつも愛されない存在なのだから、二番目で仕方ない。それで当然よ」と批判していました。これではいつまでたってもリョウさんは浮かばれません。自分が幸せになる最大の条件は、自分が自分の味方であることなのでしょう。
いや、これADHDじゃなくても自己肯定感の低さがあれば誰でも起こりうる、セフルネグレクトじゃねえか。
これってADHDだからなるんじゃなくて、ADHDの二次被害でしかない。ADHDの人が必ずしもみんななるわけではないが、実際問題、ADHDの人は総じて自己肯定感が低い(「やればできるはず」とか言われ続けているため、努力不足と思い込まされていたりする長年の歴史があるため)。
女性のADHDという枠になぜこれが入るのかよくわからないのだが、おそらく「女性のADHD」の二次被害の先にあるいわば三次被害でこういうことが多いのだろう。
まあ、分かるんだけどさ、必要性は。でも、ADHDの拡大解釈だと思うんだよね、これ。
いつも謙虚に心配する癖を付けておく
謙虚になれば、心配すれば、問題を起こさないとでも思っておいでで? そんな精神論でADHDが起こす大惨事を回避できるとでも?
はい、でたクソバイス。こういうのが一番困る。こういう言葉は「やればできるのに努力が足りない」のスタートライン。もちろん、ADHDではない人はこれを言われたら「ああ、そうか」ってなって、「ちょっと待てよ」と、慎重に、一つ一つ心配事を解決していけるだろう。
でもADHDは
- 「心配事がどれか分からない」
- 「自分が一体何に心配しているのわからない」
- 「心配事を考えている集中力を維持できない」
- 「心配事の優先順位がつけられない」
ですよ?
たぶんね、多くのADHD当事者が「あーきっと、まだなんかやらかすんだろうなー、絶対大丈夫なんてことあったことないもんなー」って常に漠然と不安を抱えているんですよ。
のですよ。
それを!
解消する!
方法を!
教えてくれればいいのです!!
そんな「謙虚」とか「心配性すぎるくらいがいい」とか言ってるから!
抗不安剤飲まないと、過呼吸になりそうになったり、睡眠薬なしには、夜眠れなくなったりするわけですよ。アンダースタンっ!?
PDCAサイクルを回す方法を、教えてくれ!それだけでいいんだよ!
って、思うんだけど、「女性のADHD」本読むと、「うん、それをできる状態を知るために読んでるんだよね」っていうクソバイスばっかりだから…なんか、ちょっと、悩んでる土壌が違うのかなー。
薬を飲んで、自分が以下に、普通と言われている状態とは違うと実感できたことで、これは精神論でどうこうできるものではないと痛感した。薬を飲まずに生活することもできるとは思うのだが、そのためには、事故を防ぐためのフローチャートや、トラブルシューティング、危険回避のシステムを事前に作ることが必要だとよく分かった。気持ちだけ前のめりなって止められるものでもないし、その危険回避システムを1人で作れるほど優秀なら悩まないと思うんだよね。
それは、「気をつける」でなんとかできるようなもんじゃない。指差し確認でも、ギリギリアウトくらいのものだからなぁ。(もちろん、すげー簡単なことでなんとかなるのはわかるんだけど、そのすげー簡単な方法を知りたい理由)
忘れ物防止のために神棚を作って使用頻度は高いけどなくしやすいものを置いておく、とか、白いカバンを使ってものを見つけやすくするとか。そういうの。
行動を起こす時の事故防止に繋がる儀式を決めておかないと。って思う。あー。ホント、それ。ほしい。