不登校について思う
別に身のない話なのだが…小学校低学年の姪が不登校になったらしい。
姪っ子の親は、ちょうど海外にも生活拠点がある夫婦だったので、海外の日本人学校に、たぶん通わせている。
不登校になったタイミングでしかその情報を聞いていないので、その後は元気に通っているのだろう。夏休みを利用して帰国したときにあったときは、真っ黒に焼けてとても元気そうだった。
姪っ子は、おばの私が言うのも何なのだが、とても聡明な子だ。勉強が好きだし、図書館や本屋さんにつれていけば、黙って本を読んでいるような子だ。そんな子が不登校になったので、私は特に心配していないのだが、気になるのは彼女の両親だ。
だが、彼女の両親も最初は悩んだようだけど「まあ、私達の子だから、社会性が低くてもしょうがないかなー」と、開き直ったらしい。
ひきこもりが長期化する親の切実な様子をつぶさに見ることが多い身としては、それくらいのゆるさで受け止めているのなら、なんだか、ほっとする次第だった。
よく学校で社会性が育つ、なんて言われるが「いや勉強するところだろ」という思いが強いんじゃないだろうか。というか、私はそう思っている。姪の知識に偏りがでるのは可哀想だから、ちゃんと勉強してほしいとは思うけれども、別に学校じゃなくてもいい、塾でも、通信制でも、なんでも。
人んちのことなので、口を出さないし、姪っ子に学校行けとか、勉強頑張れとか、もちろん言わない。というか、姪っ子は自発的に勝手に勉強する。学ぶと言う行為が、苦ではないのだろう。心の底から羨ましい。
ただ、私自身が親となって、子供が不登校になったら、しかもそれが、人間関係ではなく、勉強したくない、とか、苦痛、とかだったら…困るな―。悩むな―。
学問は、人間関係や職業選択の武器になるだけでなく、自分が立ち止まったとき、悩んだときの強力なアシストになる。孤独から救い出してくれる救済にもなる。なによりも、知らない世界への扉を開く鍵にもなるし、それ自体が遊びにもなる。
基礎を学ぶまでは忍耐がいるかもしれないけれども、その基礎さえ学べば、可能性は広がるばかりだ。
でも、学校の勉強が苦なのだしたら、勉強は楽しいものだと、感じてもらえる環境を、親は作ってあげることしか出来ないんだろうな。
…学校じゃなくてもコミュニケーションは学べると思うのは、単に私がコミュニケーション強者なのかもしれないなぁ。