読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

育て直し(自分を)

どうやって生きていくのかぼんやり考えるブログ

人の考えは言葉なのか?映像なのか?

余談 ジェンダー

少し前のことになるが、性暴力被害の心象を映像化し、その壮絶さを訴えた映画「月光」を見てきた。


映画『月光』予告編

 

 

映画畑で育ってきた会社の後輩と2人で見てきた結果、開口一番反応に食い違いが生じた。

私「いやーリアルだったね!」

後輩「え、逆じゃないですか?リアリティない…」

真逆!

びっくりした。その後彼女と感想共有の結果、私達が導き出した感想は

「説明不足」

となった。

彼女がリアリティを感じないと思った点は4つ。

  1. 登場する女性たちの服がなんか皆妙に露出度が高くないか?とか(私達は露出度が極めて低いため、そもそも共感ができなかった)
  2. 主人公のバックグラウンド(どんな人生を歩み、どんなことを考える人なのか)がいまいちよくわからないまま終わった
  3. なぜ被害を受けた後そういう行動を起こすのか?が分からない
  4. (3つ目と通じることだが)現実と、心象の映像の境目が分からず、困惑した

という点がいまいちわからなかったそうだ。

一方、
私がリアルだ!と感じた点は、1つ。

  • 嵐のような心の傷の深さ

現実と虚構の区別がつかず、いつを生きているのか?さえわからなくなり、主人公の人生がボロボロになっていく様が実に丁寧に描かれている。

後輩と私、相違点はどこにあるのか?それは、性暴力に対する事前の知識だと感じた。
私はこの映画を見る前から、色々と性暴力被害者や、トラウマについての考察を色々と読んでいた。正直、映画を見ていて「このシーンは、あの本に書いてあったこれか」「なるほど、あの状況を映像化するとこういう反応になるのか」と感心しながら見ていた。自分の中にある知識と答え合わせをしながら見ている気分であった。だからこそ、私も後輩と同様に感じていたリアリティのなさが気にならなかったのだ。映像で全てを伝えることはもちろん、容易ではない。感情のすさみようを表現できたこの映画は、その前後の知識を度返しに心の中の嵐を表現に徹したのかも知れない。その意味でこの映画の出来は間違いなくよかったといえるだろう。

だが、啓蒙や性暴力被害のダメージの深さを伝えるのであれば、そこにはやはりなぜそういう現象が起こるのか?という前提が必要だったのではないだろうか?自分がもし監督ならどう表現するか?それを考えた時私は、主人公の心の声が圧倒的に足りないことが問題なんじゃないかと思う。

映画は主人公たちはほとんどしゃべることはなかった。独り言をいうでもなく、心の声をのせることもなかった。だが、私自身に当てはめてみて思うのは、私が被害者だったら、心の中で大音量の言葉が、飛び交い、大混乱を起こしているような気がするのだ。

 

「あんなところに行くから」「なぜ私はあんな行為を?」「あそこで、あいつに出会わなければ…」過去に戻り、何度も何度も、どこが悪かった、あそこが悪かった、あの起点に戻れば、大丈夫だった、あいつの何が悪いか?私の何が悪いか?これは苦しいのか?本当は辛くないんじゃないか?とか、もう誰が何を喋っているのか?わけがわからなくなるくらい、頭の中でたくさんのスピーカーが大音量で言葉を投げあっているような状態になる。そこに記憶の映像が滝のように溢れ出し、私の心をぐちゃぐちゃに刷るんではないか?と思うのだ。目を閉じても、耳をふさいでも、うちなる音や映像は失われることなく、自分に襲いかかる。

映像は美しく、音楽も美しかった。だが、言葉圧倒的になかった。しかし、それは私が言葉の人だからかもしれない。
少し話は変わるが、専門紙の編集長と何か話をしているときに「あなたは言葉の人だ」と言われたことがある。どういう文脈だったわからないが、言葉以外、きっと映像や情緒が先行してしまう人がいるようだ。もしかしたら、監督はそういう人なのかもしれない。

混乱すれば混乱するほど、私は頭の中に言葉があふれかえる。エヴァのシンジ君みたいなことが起こる。アタマの中で「私はダメだ」という言葉が繰り返され、気がつくとあるきながら「だから私はダメなんだ」とつい口ずさんだんでしまったり。言葉だけじゃない、言葉にならない怒号も。眼差しも「お前が悪い」と責め立ててくる。

美しい作品だった。だけど、もう少し、何が起こっているのか?の説明があってもよかったのかな、なんて思う。

それと、やっぱりそもそもの前提ももっと必要だった気がする。いきなり哀愁の美女、から始められてもなぁと。庵野監督が表現するような破壊される前の「平穏な日常」ももっと丁寧に描かなくては、いけなかったのではないだろうか。

…まあ、テレビ屋の考え方なのかもしれんが。