大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

人の考えは言葉なのか?映像なのか?

少し前のことになるが、性暴力被害の心象を映像化し、その壮絶さを訴えた映画「月光」を見てきた。


映画『月光』予告編

 

 

映画畑で育ってきた会社の後輩と2人で見てきた結果、開口一番反応に食い違いが生じた。

私「いやーリアルだったね!」

後輩「え、逆じゃないですか?リアリティない…」

真逆!

びっくりした。その後彼女と感想共有の結果、私達が導き出した感想は

「説明不足」

となった。

彼女がリアリティを感じないと思った点は4つ。

  1. 登場する女性たちの服がなんか皆妙に露出度が高くないか?とか(私達は露出度が極めて低いため、そもそも共感ができなかった)
  2. 主人公のバックグラウンド(どんな人生を歩み、どんなことを考える人なのか)がいまいちよくわからないまま終わった
  3. なぜ被害を受けた後そういう行動を起こすのか?が分からない
  4. (3つ目と通じることだが)現実と、心象の映像の境目が分からず、困惑した

という点がいまいちわからなかったそうだ。

一方、
私がリアルだ!と感じた点は、1つ。

  • 嵐のような心の傷の深さ

現実と虚構の区別がつかず、いつを生きているのか?さえわからなくなり、主人公の人生がボロボロになっていく様が実に丁寧に描かれている。

後輩と私、相違点はどこにあるのか?それは、性暴力に対する事前の知識だと感じた。
私はこの映画を見る前から、色々と性暴力被害者や、トラウマについての考察を色々と読んでいた。正直、映画を見ていて「このシーンは、あの本に書いてあったこれか」「なるほど、あの状況を映像化するとこういう反応になるのか」と感心しながら見ていた。自分の中にある知識と答え合わせをしながら見ている気分であった。だからこそ、私も後輩と同様に感じていたリアリティのなさが気にならなかったのだ。映像で全てを伝えることはもちろん、容易ではない。感情のすさみようを表現できたこの映画は、その前後の知識を度返しに心の中の嵐を表現に徹したのかも知れない。その意味でこの映画の出来は間違いなくよかったといえるだろう。

だが、啓蒙や性暴力被害のダメージの深さを伝えるのであれば、そこにはやはりなぜそういう現象が起こるのか?という前提が必要だったのではないだろうか?自分がもし監督ならどう表現するか?それを考えた時私は、主人公の心の声が圧倒的に足りないことが問題なんじゃないかと思う。

映画は主人公たちはほとんどしゃべることはなかった。独り言をいうでもなく、心の声をのせることもなかった。だが、私自身に当てはめてみて思うのは、私が被害者だったら、心の中で大音量の言葉が、飛び交い、大混乱を起こしているような気がするのだ。

 

「あんなところに行くから」「なぜ私はあんな行為を?」「あそこで、あいつに出会わなければ…」過去に戻り、何度も何度も、どこが悪かった、あそこが悪かった、あの起点に戻れば、大丈夫だった、あいつの何が悪いか?私の何が悪いか?これは苦しいのか?本当は辛くないんじゃないか?とか、もう誰が何を喋っているのか?わけがわからなくなるくらい、頭の中でたくさんのスピーカーが大音量で言葉を投げあっているような状態になる。そこに記憶の映像が滝のように溢れ出し、私の心をぐちゃぐちゃに刷るんではないか?と思うのだ。目を閉じても、耳をふさいでも、うちなる音や映像は失われることなく、自分に襲いかかる。

映像は美しく、音楽も美しかった。だが、言葉圧倒的になかった。しかし、それは私が言葉の人だからかもしれない。
少し話は変わるが、専門紙の編集長と何か話をしているときに「あなたは言葉の人だ」と言われたことがある。どういう文脈だったわからないが、言葉以外、きっと映像や情緒が先行してしまう人がいるようだ。もしかしたら、監督はそういう人なのかもしれない。

混乱すれば混乱するほど、私は頭の中に言葉があふれかえる。エヴァのシンジ君みたいなことが起こる。アタマの中で「私はダメだ」という言葉が繰り返され、気がつくとあるきながら「だから私はダメなんだ」とつい口ずさんだんでしまったり。言葉だけじゃない、言葉にならない怒号も。眼差しも「お前が悪い」と責め立ててくる。

美しい作品だった。だけど、もう少し、何が起こっているのか?の説明があってもよかったのかな、なんて思う。

それと、やっぱりそもそもの前提ももっと必要だった気がする。いきなり哀愁の美女、から始められてもなぁと。庵野監督が表現するような破壊される前の「平穏な日常」ももっと丁寧に描かなくては、いけなかったのではないだろうか。

…まあ、テレビ屋の考え方なのかもしれんが。

日本社会も実はだいぶ限界

世界中で宗教がらみのテロが起きまくっている。

日本国内ではあまり巻き込まられることなく、蚊帳の外だという感じがしないこともないが、日本でもなんやかんやテロが起きている。

新幹線の中に火をつけたり、深夜家に押し入って人を殺したり、罪を償いたいと他人を巻き込んだ自爆をしたり。

政治信条を掲げるのではなく、その原因はわからない。皆個人の問題なのだ。

そんなよくわからない理由でテロが起こるこの国はやはり、なにか根本的な問題を個人の努力のせいにして、社会が果たすべき責任を個人になすりつけているのではないだろうか?

失業率は下がっているそうだが、失業率は就労意欲がある者から測られる。ホームレスは街から排除され、綺麗な街が整備されているが、ひきこもりの数は減る様子もなく、労働市場から途中退場からひきこもりになる人は増える一方だ。

精神疾患生活保護受給者の数は?

社会は問題を見えなくすることばかり進めていて、何か大事な問題にメスを入れられているのだろうか?

自衛官、73歳、自殺、自爆、自分を責めたような遺書、お決まりのようにまじめだったという上司の証言…

何か、とても異様だ。

 

個人の努力、資質の問題ということで、社会は何も問題を抱えていない顔をしているだけなような気がする。

 

ただの今朝の報道の感想です。

地震の影響なのかなんなのか?

最近、ここ一週間謎の体調不良に襲われていた。

先週の土曜日にマラソン大会に出ていたのだが、なぜか13キロくらいで走るやる気が出ずリタイアした。日常的に15キロ前後は走っていたのにそれに及ばない距離で心が折れたのはなかなかショックだった。

帰ってきて、横になり、夜まで寝た。そしてご飯を食べてまた寝た。

よく分からない倦怠感と眠気と頭痛と腹痛。生理3日目だったために、走ったのがよく無かったのかな、なんで思った。だが、私は2日目に生理痛が来ると翌日からはけろっとしていることが多かったから、不思議で仕方がなかった。

日曜日、具合が良くならない。

月曜日、それどころかなんか日に日に悪くなってるかも…?な状態が続いていた。

たしか、水曜日だったと思う。映画館で味の濃いポップコーンを食べ過ぎていたのであろう。私は夜に強烈な吐き気で眠れずにいた。横になるとしんどかったので、トイレにこもっていると、地震がきた。

まさか、大きい地震がくるのか?そんな予感がした。確信があるわけではないが、地震が来る前体調不良になるイメージがあるからだ。ただ、そうかも、と思うのは地震がきた後。なんとなく元気になったような気がする、くらいなものであんまり確信は持てない。

いや、まさか、そんなわけあるか。しかもその時起こった地震は震度2くらいのちょっとした揺れだったし。

 

木曜日、一昨日はさすがにこのよく分からない体調不良はなんかガンとかの予兆なんじゃないのか?と不安になったりもしていた。さらに頭痛か腹痛のせいか頭が朦朧として集中力の低下もなかなかのものだった。 SNSセクハラのせいで、メンヘラになったのか?なんで思っていたが。

 

金曜日も低空飛行スタートだった。腹痛が相変わらず、抑うつ気味でもあった。それでも、夕方には久々にランニングをしたかった。抑うつ状態をなんとかしたかったのもあるが、日曜日の体調不良の検証をしたかったのもあるからだ。

走ってみた感覚は決して悪くなかった。10キロしか走れなかったが、走りたくないと言う衝動は抑えられる程度。むしろ体幹を使って走ることをイメージができとても心地よかった。走りながら全身ストレッチをしているような爽快感があった。

 

走り終わった心地よい疲労感に包まれながら、不思議と体に覆いかぶさっていた体調不良を忘れていた。日曜日にトレイルランに誘われていたが、体調不良がひどくて断っていたが、全然いけそうだな、なんであの時断ったんだろう、なんて思っていた。

そこではたと気がつく。そういえば鳥取で震度6の地震があったじゃないかと。

翌日(今日)体調は不思議と悪くない。むしろ元気だ。体を覆っていた不快感はどこへ?

場所は鳥取と遠く、本当に影響があるかなんてのはよく分からない。生理痛の延長かもしれないし、いつものメンタルの不調の可能性は十分にある。が、地震のせいであれば、フルマラソンを13キロでリタイアした理由にはなんかもう仕方ないかな、と思えるからありがたいところだ。

地震により被害に遭われた方には申し訳ない話な気はする。しかも予知も出来てないし。そもそも遠いのに。

何はともあれ、謎の体調不良から解放されてよかった。

 

こういうのあるらしいね。

こんなことがあったら気を付けろ!大地震の前に起こる宏観異常現象とは? - NAVER まとめ

そういえば、木曜日か金曜日あたりテレビの電波が途切れたけど、東京でも関係あんのかな?…いや、やっぱさすがに遠くね?

 

宮﨑駿と新海誠は違う方向性だとわかってよかった

君の名は。を見てきた。

なんとなく、見なくては行けない気はしていた。話題作だし、宮﨑駿好きとしては、これはやはり見なくてはいけないのではないか?と。

見たいと言ってくれる人がいたので、見てきたのだが、友人との感想は

「良かった」

だけである。

毎回、その友人とは映画をみたあと、だいぶ長いあいだ、メッセンジャーで、あの映画のあのシーンはこうだった、ああだった、と盛り上がるのだが、今回はほぼそれがなかった。

良かったし、また見たいなとも思うし、人にも勧めようと思うのだが…シンゴジラや、宮﨑駿アニメのような中毒性が全然ない。

なぜか?全然わからなかった。キャラクターに共感ができないからか?と思ったが、考えてみたら、シンゴジラも、宮﨑駿作品も共感できるキャラがどこにいただろうか?共感じゃない、何かが違う…。

たぶん、ひとことで言ってしまえば私と友人は恋愛映画に興味がない、ということだとは思う。

だが、センとハク、アシタカとサン、キキとトンボ、ポルコとジーナとフィオ、カーチス、恋愛要素があるじゃないか、紅の豚では「ポルコ、ジーナとくっつかねえのかよ!おめえジーナの気持ちちゃんと考えてやれや!」と、めちゃくちゃ焦らされたではないか。

何が違うのか?なぜポルコとジーナの恋にはキュンキュン(?)できるのに君の名は。ではそこら辺ひっかからないのか?不思議である。やはりあれか。

戦闘シーンがないからなのか?

ただただ、私の心の中に湧き上がったのは、そんな切なさとかどうでもいいから、恋よりも、無人在来線爆弾を!そんな気分だった。

男女のすれ違いに興味が無いはずないのに、なぜか全然胸が締め付けられない。

宮﨑駿の後に名を刻むアニメーターなのかなーと思ったりもしたのだが、たぶん違うと思う。もちろん名は刻む気はする。映像美へのこだわりは、もちろん素晴らしい。だが、駿の後ろは庵野だ。庵野の並びに新海誠がいるとは思えない。アクションがラブストーリーの添え物になる新海作品と、ラブストーリーがアクションの添え物になる駿、庵野作品。たぶん、それが違いだ。

とりあえず、なんとなく、それがわかってよかった。

 

 

 

ゆるキャラ萌えキャラブームはたぶん行き過ぎている

最近、駅乃みちかというメトロのゆるキャラが萌えキャラに変わり、それのスカートが性的だと何か物議を醸しているらしい。

www.j-cast.com

 

そもそもあのキャラクターがゆるい時点から気持ちが悪いなと思っていたので、なんとも思わないが、スカートのシワを消したくらいで、駅乃みちかのなんともいえない昭和のいい女的な、権力にすりよるようなウザイ感じは取れないんだからどうでもいいと思うのだが、私もなんやかんや萌えキャラには辟易としているので一言申し上げたい。

子供の頃、私は多分、現代のような萌えキャラを色んな所で見られる社会を望んでいたようなきがする。

周りから後ろ指さされず、薄い本を、本屋さんでこそこそ物色するのではなく、どうどうと、社会に認められるような。今はまさに、私が子供の頃望んでいた社会が実現しているように思う。

山手線の電車がラブライブのラッピング広告に包まれたり、新宿の地下道にアニメの広告がどーんと出たり、セーラームーンやらジョジョやらが絵画展をやったり…。

アニメ文化が社会に受け止められている。だがなんだろう、この逆にむしろイライラする気分は。セーラームーンの足のアンバランスの長さやラブライブのキャラの巨大すぎる頭やでかすぎる目になぜかすごくイライラする。胸も足も、尻もなんつーか極端すぎて気持ちが悪い。なぜそう思うのか?たぶん一重に加齢はあるだろう?だが、それ以上に「もてはやされすぎている」ことが一番の問題ではないだろうか?

 

身体のバランスがおかしい美少女をお目にするのは、何も東京だけではない。鈍行で10時間(いや、新幹線に乗っても最低10時間はかかるんだった!)かけてたどり着いた秘境、和歌山では、熊野三山の巫女の萌え絵に迎えられた。

j-town.net

心の中で「巫女みこナースかよ」と突っ込まざる得ないくらいチープな巫女設定だった。(巫女みこナースは、ぜひこの主題歌を聞いてほしい、いや聞かなくてもいいけど)

巫女みこナース 主題歌 巫女みこナース・愛のテーマ (Full ver.) by azrael9696 R-18/動画 - ニコニコ動画

いやいや、オレ、霊験あらたかな熊野の山々を感じたくてだな、こんな90年台(巫女みこナースは2000年台の作品だった!)のエロゲみたいなの感じるためにきたわけじゃねえんだけど。という気持ちに。さわやかな疲労感はじっとりと思い徒労感に変わった気分だった。

 

なぜだろう?子供の頃だったらそんなにいやじゃなかったかもしれない、だけど、いきなり頭がオタクモードじゃないときに、突然エロい萌えキャラをぶち込まれるとなんか疲れるのかもしれない。

ラブライブのようなギャルゲーのラッピング広告が都内にはびこるのは仕方がないと思う。だが、地方行政はもう少しオリジナリティと、その地域性に本当に萌えがマッチするのかちゃんと考えたほうがいい。日本の美少女文化は世界に誇るもので間違いはないと思うが、それは世界で春画が評価されていることと同じだろう。日本はエロコンテンツが豊富という情報発信でもあるだろう。春画を見たヨーロッパのご婦人は、日本の男性器の大きさに驚嘆した、なんて逸話もある。同じようなニュアンスで日本の女はみんなおっぱい大きくてエロいと誤解されている可能性もある。もちろん、夜這い文化を持ち、性に開放的なのも日本文化の一つと考えれば、萌え絵で、この地域はエロいエリアという印象づけてもそう齟齬はないのかもしれないが、それをその地域の代表として発信するのはいかがか?

(主に)男オタクたちの聖地・秋葉原修験道の聖地・熊野ではターゲット層も、メッセージも必ず違うはずだ。

 

萌え絵を女性の体が性的に表現されていて不快だというフェミニストたちの発言はなんか、女性の体を持つ私としてもあんまりいい気分がするものでもなく、また、一オタクとしても、なんでそんな個人の感情論で避難されにゃならんのや、という気持ちにはなる。だが、考えてみれば、志摩のメグも熊野の巫女も、エロゲキャラで出てきても「おっしゃ、脱がしてやる!」とエロゲ魂を刺激されるだけの設定を備えていることを考えると、やっぱり、性的な要素が強すぎるのだろう。

(その意味では、道乃みちかは、ときメモとかに出てくる隠しキャラ(コアラ女とか)くらいの立ち位置(落としてやろうという闘志がいまいち湧かない)な気がするので、そもそもあんまり性的なキャラとは思えない。あくまで一世代前のギャルゲ好きのオタク的には、だが)

 

全然どうでもいいんだけど、なんで全部擬人化は女の子なんだろうか?刀剣乱舞みたいな男擬人化もあると思うんだが。いや、男だったら男で、ちょっといいじゃねえか、と思いつつ、たぶんイラッとするから、なくていいかな。

この国はそろそろ作戦を変えたほうがいい

ご存知かわからないが、テレビ業界はクソブラック業界である。

365日24時間働けないやつはやめろ、という不文律の定款をどこの制作会社ももっており、早朝から撮影準備をしているのに、現場の終わり時刻が26時なんてことは残念ながらザラだ。編集の現場のシフトのスケジュールは一人の人間で10時から33時(翌日9時)までが1日のシフト。徹夜が出来る体力がなければそもそもこの業界には適正がない。

まあ、私は、現在このような働き方は、そんなにしていない。体力的に無理だし、私が扱う取材相手も、ここまで撮影スタッフがそばにいられたら関係がこじれてしまう。それでも、徹夜は1つの番組を作る上で、2,3日は覚悟しているし、編集や撮影がたてこんでくれば、1ヶ月くらい休み無しになる。(※これでも相当労働時間は少ない)

私くらいたまであり、また、忙しくないときはけっこう休める環境ならば、がんばれると思う。(だが、その分ギャラは、週末のバイトするくらいの金額しか望めない。ともかく、死ぬ気で働かないと、テレビ業界ではくっていけない。)

だからこそ、私は働きすぎる同業界人を敵視している。お前らが働きすぎるから私のギャラがこんなにも安いのだと。だが、この業界で長らく生き延びてきた人たちは、私や、若い人たちのそんなに働きたくない、私生活も大事にしたいという姿勢がいまいち理解できない様子だ。

残念ながら、この業界で長らく生き延びてきた人は、尋常じゃなく体力がある。一緒に働く60代の先輩方は今も平気で徹夜ができる。しんどくなってきたわ…といいつつ、私はもう20代から徹夜がしんどく、2徹をした日には、3日目にはほぼつかいものにならなかった。それに比べると圧倒的な体力だ。しんどくなってきたどころじゃない。こちとら、体力全盛期だって、徹夜したらカラダは強制終了モードに入る。

最近の若い奴らはすぐ休み休みという、よくグチを漏らされている。当時はきっと仕事が楽しかっただろう。インターネットもない、テレビといえば時代の花形。予算も今とは比べ物にならない。以下に予算を削るかという見積もりしか作ったことがない私には考えられない予算配分だろう。

だが、日本人はもっとカラダを大事にしたほうがいいと思う。諸先輩方の体力は尋常ではないが、もれなくカラダはボロボロだ。心臓バイパス手術、編集中に吐血して救急車で運ばれた、ロケ中に意識が飛んだ…働きすぎて体壊した武勇伝を業界人だったら最低1つは持っている。突然死も少なくない。脳梗塞も多い。

だが、本当に、私生活を追いやって死ぬ気で働けない人間は一人前じゃないのだろうか?もちろん、東京が焼け野原で、一から作っていくためには、死ぬ気で働かなくてはならないだろう。作戦名は「ガンガンいこうぜ!」だろう。

だが、今は?エアコンは5万円の家賃の家だって標準装備だし、ケータイは家がなくても持てる。水は公園で飲めばタダだ。電気も、電力会社が火事になっても30分で復旧できる。

死ぬ気で働かなくたって、我々は衣食住に困らない世界に生きている。

もうそろそろ作戦名を「いのちだいじに」に変更しようではないか。働きすぎなければ、きっと吐血もしないですんだだろう。救急車に運ばれなくてすんだだろう。

ロケ中に意識飛んで電車から落ちながらも、カメラ守りながら身体負傷するのは全然かっこよくない。そんな医療費かけるリスクを選んでいるから老人たちの医療費は尋常じゃないのだ。

いのちだいじに。家族を大事に、身体を大事に。

完徹、1ヶ月不眠不休で働かないとスキルが身につかないわけがない。
じっくり、ゆっくりスキルを養っていけばいいのだ。

自分の不快感に蓋をしないように

最近、自分が軽度の自傷癖があることや、軽度の依存症傾向があることが分かってきた。もちろん、病的なレベルではない。だが、それが私の心のバランスの崩しやすさに起因しているのかもしれないと思うのだ。

 

いくつか、悪い癖だなと思う所が最近見つかった。

人が少しでも語気が荒かったり、自分が少しでも後ろめたいと思っていることを言われると、強く非難されているような気がして私自身が感情的になって怒鳴っている(と、人から言われ初めて気がつく)。その時私は「なんで私を責めるんだ」ともう泣く直前まで追い詰められていたりするが、実は誰も責めていないということがある。

 

必要以上に周りの期待に答えようとしてしまうところがある。自分の気持ちに鈍いせいだと思うのだが、「相手はこうしたらきっと喜ぶだろう」ということを優先しすぎてしまうことがある。

「その後の不自由」という本の中で、依存症などの生きづらさを抱える女性の分析を行った本によると、パーソナリティ障害などという、傍目から見れば、自分買って極まりなく、人を振り回す障害を持つ人は、実は心の中心に、他人がおり、自分を押し殺しているのだという。たしかに、自分自身や、パーソナリティ障害としかいいようがない身勝手な親族の対応を見ていると合点がいく。

「私がお前のため、家族のためを思ってこんなにも我慢しているのに…!」となじられたり、私自身が「この人のために、私が我慢しなきゃ、私が悪者にならなきゃ、私が犠牲にならなければ」と、必死にやりたくもないことをやろうとしている時に「お前は自分勝手だ」と非難される。そして私はほんの少しも自分のことなんて考えていないのに、自分を殺しているのに、なぜ誰も理解してくれないんだと、絶望の縁に叩き落される。

 

色々と何が理由でそういうことを言われたのかは思い出せないが、あの失望感と、裏切られたという気持ちだけは忘れることができない。世界で誰も私のことなんて分かってくれないという、孤立感も。

だからこそ、私は今、自分の心と向き合えるように、努力をしている。

気がつくと、私が我慢すれば丸く収まる、皆に迷惑をかけちゃいけないと、刷り込まれているのだが、それが、私自身を惨めにして、余計他人に迷惑をかけているのだと、自分の嫌な気持ちに素直にならないといけないと思う。

 

最近、少しメンタルの調子を壊している。

それが、知人からのセクハラにひどく傷ついているのだと気がついたのだが、それに気がついたのは、その知人が私と夫との関係をあざ笑うかのような発言をしたことに起因する。

知人からのセクハラは、6月ごろされて以来、その知人とは距離をおいていた。

 

 

mangobus.hatenablog.com

 

ランニングをする知人♂(A)に走り方を教えてもらううち、週に1回一緒に走るようになり、Aの友人♂(B)も一緒に走るようになり、Bの所属するランニングサークルに私が顔を出すようになったところでBに「あなたの態度はフラットすぎて、オレやAとできていると思われても仕方がない、あなたの干渉しあわない夫婦関係や、結婚しているように見せないあなたの態度を改めたほうがいい」と言われたのだ。 実際Aとは「Aさん、ちゃんまるのこと好きなんじゃ?」とか「Aさんとできているんでしょ」と言われることはあったが、Aは未婚だし、私もなんとなく「Aとはできているわけないし、できていると思われてもネタになって面白いからいいや」くらいに思っていたのだが、Bは既婚者で、そもそも私自身が気をつけて距離を取っていたので寝耳に水だったのだ。

アバズレの正体 - 育て直し(自分を)

 知人からのこの発言が俗に言うセクハラ、と気がついたのはここ数日のことだ。知人にはセクハラの意図はないだろう。だが、先日、Bと繋がるSNSで夫との旅行写真をアップし、気恥ずかしいので、「隠し撮り」と表現したら、私たち夫婦を隠し撮りし合う変態カップルで、あなたのその癖、直したほうがいいですよ、僕を勝手に隠し撮りするのはやめてください、とコメントを寄せてきた。

私の中では知人というカテゴリーの彼を隠し撮りしたことは当然ながらなく、完全な勘違いだったのだが、自分の勘違い、自意識過剰でありながらも人を非常識な変態扱いしてきたのである。しかも、私だけでなく旦那も含め。

 

家族を侮辱するのは、最大級の侮辱と私は思っている。そんな仇を許すわけにはいかないが、なんか自意識過剰のおかしい人なので、ただただ縁を切ることにした。

SNSにはそのAのコメントを夫も見た。私は夫がその侮辱に対し、怒り、めんどくさい自体になるかと内心ドキドキしていたのだが、
彼は一言ため息混じりに
SNSなんてめんどくさいことしない方がいい」とだるそうに告げ、もうそのことは話題に登ることもなかった。
私はそこでやっと気がついたのだが、Bの態度に激怒していたのは、私だったのだ。
そして侮辱をされていたのは、私自身だったのだ。そして、これはセクハラではないか、と。私がどんな交友関係を持とうと、どんな夫婦生活を営もうと、他人には断じて関係ない。
私の中にどこか「私の思わせぶりな態度が他人に迷惑をかけた」という罪悪感が有り、申し訳なく思っていた。だが、考えてみれば、Aとは別に恋人と思われてもいいやと思えるくらいなかよしで、勘ぐられても面白いかなと自覚をしていたわけで、Bとはむしろ距離を他の人と同じような距離感で知っていたわけだ。
そこになぜかBが勝手に「自分に親しげに声をかけてくる女オレに気がある」と自意識過剰を発動させていたわけで。むしろ彼の認知の歪みに寄って迷惑を被ったのは私ではないか。

なぜ私は自分を責めてしまったのか?それは私が常に「自分に問題がある」と思っている節があるからだろう。そして「私が我慢すればいい」とも思っているからだ。自分が不快だという気持ちに蓋をしてしまいがちだ。だが、不快な気持ちは素直に表す方がいい。そのほうが他人にも迷惑をかけないし、私も自覚できずに、ただただ体が重い、なんてことにならなくてすむ。

 

自分の気持ちを大切に、自分自身を大切に。それが出来ない人間は他人さえも大切に出来ない、当たり前だが、もう一度ちゃんと自分を大切にできるトレーニングしていこう。