大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

この国は過干渉で過保護

この記事を読み、日本って他人の行動にいちいち口出しすることが良しとされてる国なんだなとつくづく思った。

さすがにこれは各論すぎやしないかと思ったのがこのくだりだ。
話が少しずれるかもしれないですけど、日本橋三越とか行くとベビーカーの人が結構いますよね。伊勢丹もそうだけど、デパートに乳幼児を連れてくるってどういう感覚?って思うんです。ここは大人が買物する場所だよね?と。ららぽーとやイオンモールで家族連れなのはわかる。でもデパートは生活必需品を買いに行く場所ではないし。それは飲み屋もそうだし、観劇もそうだと思うんですけど、ある程度は住み分けをするべきじゃないのかなと。子どもが一緒でもどこでも行けるというのは、ちょっとどうなのかな……。

読みながら思ったことは、誰がどこに行こうが関係ねぇだろということ。

電車内でマナーが悪い人はベビーカーに限ったことではない。電話を切る様子もなく、大声で喋るババア(おそらくそんな人にさえ、耳が遠い、マナーモードの仕方がわからないなどその人にとってはのっぴきならない事情がある)もだいぶ迷惑だ。あと、通勤時間帯に3人用シートで横になって寝てる酔っ払い。(このおじさんにも事情は必ずある)


たしかに人口がすっごい過密している日本の電車ではお互いの譲り合いは殺し合いの喧嘩にならないためのライフハックだろう。だけど、ここまで他人の行動を監視する社会というのはさすがに居心地の悪さを感じないだろうか?

子ずれでは生活必需品以外は買い物に行ってはいけない?


それって、相当危険な思想じゃない?

根底の差別意識がプンプン香りますが。


これを見てベビーカー論争というのは他者への優しさを欠いたべき論のなすりつけ合いで、そこには譲り合いを愛する精神はない。

「私はこうやって社会のために、譲ってやってるんだからお前らも肩身の狭い思いをもっとすべきだ」というある種の手前勝手さをはらんでいる。

社会のために、公のためであれば他人を抑圧していいという思想がこの国にはある。相互監視社会がしっかりと根ずいている。

江戸幕府が敷いた民衆を支配するための、村八分、五人組などの精神性が文化としてしっかりと日本社会に寝ずいているのかもしれないな。

お互いの行動に過干渉で、是非を公共の正義の名の下で規定し、守らせることで利益を与えつつも支配下に置こうとする過保護さ。

それがある種、この国の生きずらさを生み出しているような気がする。