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育て直し(自分を)

どうやって生きていくのかぼんやり考えるブログ

記者だって悩むし病むのだよ

マスゴミ批判はとても耳が痛い。

実際、自分の周りにも「そのネタを取材したくせに、1冊の本も読んでいないの?我々の仕事は誰かを傷つける凶器になりえるのに…」と呆れてしまう人はいる。

だが、今日は、弱音を吐きたい。

記者だって人間だし、誰かを傷つける覚悟、自分にその刃が向くかもしれないという恐怖の中記事を書いたり、番組を作ることがある。
被写体にとって記者は、最初の視聴者だ。そして、通常ならば一方的に文句を言われるだけの視聴者だが、記者は文句を言ってもいい視聴者だ。しかも、「もうこんな取材受けるか!」と罵声を浴びせてもいい対象だ。

それでも、記者は、己の中の正義のためにその罵声に耐え忍ぶ。そんな言葉の暴力、時にガチの暴力をされる相手でも、一度取材をさせて頂ければ全力で守らなくてはならない対象だ。

なぜならば、被写体にとって、その暴力は、記者そのものに向けられるものではなく、記者を通した世間に向けられたものだからだ。その被写体の怒りをそのまま世間にぶつければ、世間はただただ反発するだろう。そんなことのために、被写体を危険にさらす訳にはいかない。

被写体に攻撃されながらも、被写体を守りながら、被写体の痛みを伝え、社会に問題提起をする。それが記者の姿だと思う。

正直、しんどい。正直敵だらけだ。被写体と同じように世間を憎むし、世間に言葉が届かない苛立ちも覚える。だけど、被写体は私に寄り添ってはくれないのだ。もちろん、それでいい。媒体に寄り添わなくてもいい。記者は、被写体を使って自分と被写体と同じ部分の怒りや疑問を社会にぶつける卑怯者なのだから、理解してもらわなくても、得るものは十二分にあるのだから。

だけど、その意思決定の度に、被写体に迷惑をかけていないか、被写体を傷つけないか、視聴者に届くか、真実を捻じ曲げていないか、独りよがりになっていないか、繰り返し繰り返し内省が続く。

それは絶対に逃れられないし、それができないなら、ドキュメンタリーなんて作っちゃいけない。真実は一つじゃないし、視点によって物事は形を変える。その複雑さを、シンプルな形に切り取り、伝えるのが記者の仕事なのだから。

 

まあ、そんなことやっているから量産ができないんですけど。

世間の記者に対する不信感に触れると、心が折れそうになる。頭では、そうやって疑われて、疎まれるのがこの仕事なのだとわかっているけれども…やっぱり、疎外感と孤独感、そして恐怖で、動けなくなってしまいそうになるな…。