大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

意味が無いなと思いつつ

英語はわかりやすい、と思うことがある。

私がよく行くシェアオフィスにあるコーヒーマシーン。そこのオフィスは外国人も多いようで、英語表記で書いてある。
エスプレッソ、カフェラテ、カプチーノ、ブレンドコーヒー…カタカナとアルファベットで書かれている。そのマシーンに使われていない機能がある、蒸気がでそうなピクトグラムが描かれているボタンの上には、日本語で「このサービスは利用できません」と書いてあった。そして英語には「Do not touch」とだけ。

 

日本語と英語を見て、「このサービスは使われていないから、触らないでほしいんだな」と分かる。

というか、好奇心が旺盛というか、禁止されるとやりたくなるからなのか、たぶん、「このサービスは利用できません」だけだったら、私はとりあえずボタンを押してしまうと思う。

正直、日本語だけだったらちょっと意味がわからない。

ダイレクトに、「触るな」と教えてくれる英語の方がストレートだし親切だ。

「Do not touch」と書かれているから触ったらちょっとヤバイことが起こるかもしれないな―と思いながらドキドキしながらさわり、結局何も起きず安堵したことがある。(ええ、好奇心に負けました)

 

新幹線での自撮り棒が危ないからホームでは気をつけて使え、という案内も、日本語だと覚えていないけど、なんか結局よくわからなかった。

英語で「Danger! no selfy sticks! Warning high voltage」と自撮り棒、ダメ絶対的な直球だと、短いワードだけどなんとなく、あぶねえんだな、と思うけど、日本語だと全文を読まないと結局わかんないし、ていうかむしろ分かんないし、と思う。

私は空気を読むとか、日本語を読むとか苦手なので「で、結局何がいいたいの?」と思うことが多い。なので、もし私はアメリカに生まれたらもっと生きるのが楽だったかもしれないと思うことがある。

 

ただ…日本の社会の中で、限定された海外の言語や文化を目にして「私は外国があっているかも」「欧米ならこう、日本はだから遅れている」なんていうのは、なんか意味が無いなと思う。

と思いつつ「中国人に生まれたらもっとものを直球に言えるんだろうなー」とか「北欧に生まれたら失業しても安心感があるな―」とか「フランスならシングルで子供産めるかな―」とか、もう、仮定の夢ばかり見てしまう。

少なくとも、日本という社会で生まれ育ってしまったのだから、そんな仮定、もしもシリーズは意味がないと思う。外国にいけば、外国人である以上、母国の住人のような気配りは当然求められない。それは、日本人が外国人には場の空気を読むことを無理強いしないことと同じことだから。

その国に生まれ育てば、外国人にはわからない、母国人だからこそ感じる息苦しさは必ずあるはずなのだから。

と思いつつ、外国へのあこがれは抱いてしまうものです。現実からの逃避ってやつですかね。