大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

家に帰りたくない

仕事に追われている時間が一番安心する。しかも、納期に多少の余裕があるうちは。正月元旦から仕事をできることに感謝を。家を脱出できたことに感謝を。

今年の正月はトップクラスにきつい。恩赦感がない。ただ「嫁として」の義務が私をがんじがらめに縛り上げる正月。これから私は嫁として行きなくてはならないのだ。嫁にとって正月は戦争なのだろう。戦わなくてはならない。

考えてみれば、私がこの職種を選んだのは、正月でも仕事をしなくてはならないからだ。どんなときでも家に帰りたくない。そんな思いだった。24時間365日、会社はいていて、仕事だと言えば家に帰らなくていい、そう思っていた。

だが、実際には、どんなにきつくても家に帰ってこなくてはいけない時はあるし、きついと今度はそれで心が壊れそうにもなる。どっちにいっても私には居場所がなかった。

普通の家庭ってなんだろうか?家に居場所があるってなんだろうか?息がつまらない家庭って、息がつまらない人間関係ってなんだろうか?

いつもいつも怒られていた。お前はだらしがない、気が利かない、要領が悪い。怒られることが当たり前だった。それ以外、家族との関係の築き方が分からない。

ほっとできる関係ってなんだろうか?どうやったら家族と人間関係を作れるのだろうか?私には分からない。一人は寂しいけれど、人が家の中にいると落ち着かない。

 

どうやって人が家の中にいるのに、リラックスをできるのだろうか?これ以上、私のダメな人間性がバレないようにどうやって過ごせるというのだろうか?とか、思ってる時点でやっぱ私って人間関係を紡ぐのが苦手なんだろうなーと思う。

本当は、家の中で、膝を抱えて壁を見据えているような根暗な人間なんだけど、他人には明るくて快活な女性と見られるように必死に仮面をかぶっている。

根暗でクソキモオタなんてことはバレバレだと思うけど、どうしてもバレるのが怖くて、気がつくと、いつも呼吸が浅くなって肩に力が入ってしまう。

 

ああ、どうやったらまともな人間になれるのだろうか…。

わかってる、全部私自身の問題なのだ。誰もきっと私のことを咎めてはいないのだ、ただ、私自身が私を誰よりも批難し、見下しているのだ。

限界を感じた2017年元旦

30日、張りつめていた糸が切れた。

夫の些細な一言が引き金になり、号泣。このままじゃ心が持たない。そう自覚した。家族があまりにいい人だから、私がずぼらだから、私がダメだからいけないのだと自分を責めていたが、考えてみれば、私はきついのだ。

家にいない間夫と共用の部屋に夫の母に入られ、洗濯物を勝手に畳まれ、時に干され、何かと面倒を見られる。両親の生活環境には入らないようにしているのに、私にはプライバシーがない。分かっている。時間がなく、家におらず、ずぼらな私に見かねた母が気を使ってやってくれているのだ。文句なんて言ってはいけない、受け入れなければならない。段取りが悪い私が悪いのだ。だが、私のプライバシーは?その無限ループ。

ありがたいことなのだが、まるで、自分の生活を監視されているような感覚がある。部屋から出るのも、トイレに行くのも、風呂に入るのも、誰かに見られている感覚がする。

朝起きれば朝ごはんの準備をしてもらえる。だから、朝挨拶するのが怖くなった。下手に起きれば朝ごはんの準備が始まる。私は食べたいだろうか?と自問自答する。そもそもなぜ他人が朝ごはんの支度をしてくれるのだろうか?どうやって争えばいいのだろうか?朝ごはんの支度を今されてもいいのだろうか?だがこのまま起きなければ、非常識な人間だと呆れられる。だが、目が覚めた時点で、いや寝る時間が遅い時点で、非常識な人間だ。私が起きてご飯を作らなければならないはずだ、だが私は怠っている。本来ならば…。だけど、なぜ私がやらなきゃならないのだろうか?という疑問も消えない。女だから?妻だから?嫁だから?

寝たふりすることでやり過ごすことしかできない。

気がつくと、両親が寝静まった後にしかリビングで息ができない。部屋にいたっていた上がって来られるか分からない。

グダグダしていると言われる。部屋をだらしなく汚していたら、だらしがない嫁だと見下され勝手に部屋を片付けられるかもしれない。

身動きが取れなくなり始めている。だけど一つも非がない、母に私は自分を責めることしかできない。夜遅くに寝ても朝早く起きられる完璧な母に私はあまりにも、ダメすぎる。自分のことで精一杯だ。家族を責めることはできない。あまりにもわたしは家族に甘えている。

感謝しなくてはならない。

 

そう思っていたが、布団にくるまって、嗚咽する自分自身の声を聞きながら、私誰のせいにもできないけど、きっと自分で自分を追い詰めて、結構限界なんじゃないかなと気がついた。

 

というか、この数日、家にいなきゃいけなかったり、休みだったりで、チョット距離が近すぎる。

 

誰も気がついてくれないしね。どう見たって私が悪いからさ。家事もしない、お荷物でしかない。

このままじゃ心が壊れてしまう。

結婚とは何か?を考える

義両親と同居して、ふと気がついたことがある。

今まで夫と結婚してから結婚したことの窮屈さとか感じたことなどなかった。

 

私は夫とルームシェアをしていたんだろうなということ。彼と私は同じように生活リズムが破綻している。だいたい朝方まで起きてるし、朝は起きられない。2,3日家に帰ってこないことに対しても抵抗感がない。基本的にはお互いテレビ業界にいるので、しょうがないのだが、ともかく、お互いがお互いに、自分のペースで生きている。家族の時間というやつがほぼ皆無だった。

だが、両親と同居して「朝ごはんは食べなさい」という圧や「お風呂はご飯を食べたらすぐ入りなさい」という圧が発生している。

家族のリズムというものを考えるとそれは正しいことなのだが、私達夫婦は、そういうリズムが特になかった。

別にいいかなと思っていた。

寝坊をした夫を見た母が「起こしてあげてね」と私に言う。私も気がつけば起こすが、別に、あなたが気にすることじゃないんじゃないですか、と思う。親心はもちろん分かるが、そんなもの自己管理すればいいだけの話だ。

ああ、これが家庭をもつことか、と思った。

家族とは、リズムがある。ルールがある。

私達2人で暮らしているときはお互いのリズムには干渉しないという不文律のルールがあった。だが、家族が増えるとそうも行かない。同じ家にバラバラの生活リズムをもった人が暮らすには、やはりある程度の規律が必要なのだろう。

たぶん、結婚ってこういうことを言うのだろう。正直、私は結婚に向かない人間なんだろうなと思う。義両親はかなり寛容な人で、嫁、として何科を求められるということはない。心から感謝しているけど、やはり、他人の生活リズムに巻き込まれるのは、正直うざったいし、息苦しい。私が自由人すぎるのだ。

 

ただ、夫も両親も妻としての性役割を私には決して求めてこない。した方がいい、など言われたり、してほしいのだろうなと思うことはあるが、強要はしてこないのだ。優しさと、申し訳無さで腸がねじれてブチ切れそうだけど、結婚とは、たぶんそういうものなのだろう。だからこそ、結婚は息苦しいし、皆疲れてしまうのだと思う。

 

 

 

記者だって悩むし病むのだよ

マスゴミ批判はとても耳が痛い。

実際、自分の周りにも「そのネタを取材したくせに、1冊の本も読んでいないの?我々の仕事は誰かを傷つける凶器になりえるのに…」と呆れてしまう人はいる。

だが、今日は、弱音を吐きたい。

記者だって人間だし、誰かを傷つける覚悟、自分にその刃が向くかもしれないという恐怖の中記事を書いたり、番組を作ることがある。
被写体にとって記者は、最初の視聴者だ。そして、通常ならば一方的に文句を言われるだけの視聴者だが、記者は文句を言ってもいい視聴者だ。しかも、「もうこんな取材受けるか!」と罵声を浴びせてもいい対象だ。

それでも、記者は、己の中の正義のためにその罵声に耐え忍ぶ。そんな言葉の暴力、時にガチの暴力をされる相手でも、一度取材をさせて頂ければ全力で守らなくてはならない対象だ。

なぜならば、被写体にとって、その暴力は、記者そのものに向けられるものではなく、記者を通した世間に向けられたものだからだ。その被写体の怒りをそのまま世間にぶつければ、世間はただただ反発するだろう。そんなことのために、被写体を危険にさらす訳にはいかない。

被写体に攻撃されながらも、被写体を守りながら、被写体の痛みを伝え、社会に問題提起をする。それが記者の姿だと思う。

正直、しんどい。正直敵だらけだ。被写体と同じように世間を憎むし、世間に言葉が届かない苛立ちも覚える。だけど、被写体は私に寄り添ってはくれないのだ。もちろん、それでいい。媒体に寄り添わなくてもいい。記者は、被写体を使って自分と被写体と同じ部分の怒りや疑問を社会にぶつける卑怯者なのだから、理解してもらわなくても、得るものは十二分にあるのだから。

だけど、その意思決定の度に、被写体に迷惑をかけていないか、被写体を傷つけないか、視聴者に届くか、真実を捻じ曲げていないか、独りよがりになっていないか、繰り返し繰り返し内省が続く。

それは絶対に逃れられないし、それができないなら、ドキュメンタリーなんて作っちゃいけない。真実は一つじゃないし、視点によって物事は形を変える。その複雑さを、シンプルな形に切り取り、伝えるのが記者の仕事なのだから。

 

まあ、そんなことやっているから量産ができないんですけど。

世間の記者に対する不信感に触れると、心が折れそうになる。頭では、そうやって疑われて、疎まれるのがこの仕事なのだとわかっているけれども…やっぱり、疎外感と孤独感、そして恐怖で、動けなくなってしまいそうになるな…。

もうすぐ高齢出産

最近、いや、最近に始まったことじゃないんだけど、

私ももう34歳か…早いもんだな―

としみじみ思う33歳。だいたい年齢を間違える。

 

1歳くらいしか間違えないから誤差の範囲だとは思う。だけど、もうすぐ高齢出産である。

妊娠は10ヶ月もするから、本当にもうすぐ高齢出産だ。

セックスの回数は増えず、排卵日か!?と思うタイミングでセックスしても、妊娠する気配すらない。

焦る気持ちがない、と言ったら大嘘なのだが、だからといって、ほしいのか?と問われると今のこの生活が嫌ってわけでもない。

子どもを欲しい気持ちと、このままでもいいやとも思う気持ち。ブランブランと揺れ動く。それは結婚したいか?という自問自答を繰り返した20代後半とよく似ている。

あの時は、まだ子どもをリアリティを持って諦めることはできなかったが、今は諦めることも覚悟しなくてはいけないと日々思う。

まだ33歳で何言ってる!といわれてしまうかもしれない。でも、タイムリミットは刻一刻と迫っているわけで。

 

最近結構本気で思うのは、私の子どもじゃなくていいから、子どもを育てたい、ということ。特別養子縁組、という、責任も全部自分で追ってフルコミットしたいということではなく、生活の一部に、子どもがいてほしい。

「○○ちゃんのために、今日も仕事がんばろう!」とか、「○○ちゃんと今日ねんねしよ〜」とかそんなん。孫とか姪っ子とか。近所の子でもいい。

 

人間には子育てが必要なのだと思う。チワワやトイプードルを赤ちゃんのように抱っこするおばあちゃんを見て、子どもがどれだけ大人の心を癒やしてくれているのかを感じる。

子どもを産まないと、子どもがいる社会で生きられない。だけど、もう少し、独身や、子無し夫婦にも子どもの負担が来るシステムがないかなーと思う。

 

子どもができない焦燥感と、虚しさは子どもと接する世界とのリーチを完全に立たれてしまうという恐怖からなのかもしれない。

(※特別養子縁組が嫌だということではなく、特別養子縁組も実はけっこう視野には入っているんだよね。ただ、あれは、正直相当覚悟がいるんじゃないかなと思う。少なからず、今の私は、出産という「できちゃったもんはしょうがないよね〜」的な言い訳ができる環境でもないと、子どもを育てるという重責に耐えられないんじゃないかなーと思う)

イライラする

最近仕事の中で私は女なので…的なことを言わなきゃいけないことが多くてイライラする。

私が自分を女だといったら私は完全にどこからどう見ても女である。

女として見られる。自ら女を主張しなくてはならない。なんで私がこんな屈辱を受けなくてはならないのだろうか。周りから見れば全く矛盾がなく、たぶん言葉にしたところで誰もわかってもくれないし、わかったふりがされるのも虫唾が走る。理不尽な現状にただただ苛立ちが募る。

 

私はたぶん、トランスジェンダーだ。だが、手術をするつもりもなければ、トランスジェンダーアイデンティティがあるわけでもなく、名乗ろうという意識もない。

それはたぶん、同族嫌悪そのものなのだとは思う。

手術をしないトランスジェンダーは女のくせに女じゃないとか、意味が分からないし見苦しい。

そして手術をしたトランスジェンダーは羨ましさとともに、ああいう人がいるからトランスジェンダーは手術をしないと認められないと僻む。

 

潜在的なゲイほど強いホモフォビアだったりするのと同じではないか。

男装が出来る勇気もない、名前を変えたいという勇気もない。性自認と性が一致しないという事実さえ言葉に容易に出せない。そもそもそれが事実なのかも分からない。ただのミソジニーの可能性だって十分ある。

 

誰かを攻撃したいわけじゃない、トランスジェンダーの存在を否定したいわけでもない。だけどやはりトランスジェンダーなんて存在しないという感覚もある。この体に生まれてしまったことが、矛盾が呪わしい。

人権がないこの国の象徴は本当に我々を象徴している

天皇生前退位の報道を見ると、

え、あのおじいちゃん(天皇)の意思はなんで無視なの?と不思議に思う。

この国では生まれに関わらず職業選択の自由があるはずだが、この国の象徴に関してはその自由は一切ない。

皇室に生まれてしまったら、死ぬまで皇室としての義務を果たさなければならない。しかも歴然とその責任を負わされるの男だけ。

有識者たちからは(テレビ報道だけかもしれないが)不思議と天皇陛下の人権の話はしない。伝統が、とか、ふさわしいとかやんわりふんわりした議論ばかり。

いやいや、職業・日本の象徴には職業選択の自由の自由も退職もないのかよ。

天皇陛下の人間としての尊重よりも、役割を全うすることが正義なのだ。

この国では労働者たちの権利は踏みにじられて当然だ。象徴となる尊ぶべき人の人権すら無きものとして扱われているのだから。