大人のADHD 生活改善日誌

よくわからない生きづらさを持つ人がよりよい人生を模索するブログです。2018年よりADHDの体質の対処療法としてコンサータ始めました。試行錯誤の末27ミリ服用中。

私の心が閉じた瞬間

そういえば、最近自分の気持ちに気がついたことがあるので、書いておこうと思う。私が実はきずついていたんじゃないか?と、思うことが1,2週間くらい前にあった。

その中で、あれは私の心が閉じた瞬間だったかもしれないな、と思うことがあった。
ここ最近で、やっと整理ができてきた。

 

尊敬しているとても頭がよく、性についてフランクに話ができる年長の男性に、ある要件で話を聞こうと連絡を取っていたアポが取れず、急きょ呼び出されたことでようやく会えた、ということがあった。

やっと時間を作ってくれた!人がいる場所では話せない、なんて言っていたから、気合を入れて行ってみたら、初対面の人がプラス3人いる、なんだかよくわからない飲み会だった。あんまりまともに話せなかったが、色々必死に話していたが、何か、うまく受け入れられることもなく、噛み合わなくて、その後数日に渡って、ずーっともやもやしていた、ということ。

 

最近、整理できたのはきっかけがある。あまりにもモヤモヤが晴れなかったので、その方と共通の知人に
「あの人って、性的嗜好の開示を求めてこられる方じゃないですか、なんか、その時私、色々聞かれたんですが、何か、うまく開示できなくて、ちょっとアイデンティティが崩れたんですよね」と話してみた。

そしたら相談した知人の方はこう答えてくれた。
「取材相手に無理に、自分の自己開示をする必要はないよ」と。
そこで、初めて、あ、もしかして私、傷ついていたんじゃないかな、と気がついた。

 

…いや、ちょっと意味わからないですね。補足します。

前提として件のその方は性のあらゆることをオープンにされている立場の方だ。また、性の情報開示を促すことが非常に長けている方。
そして、その場が飲みの場であったことで下手に堅物になるわけにもいかない(その方の存在や、関係性を否定しかねないから)
そもそもその場にいた全員が性について軽口を叩く環境にあった。

また、私も立場上、根掘り葉掘り聞くインタビュアー的ポジションのため、聞かれたことについて、誠実に答えるべきという意識が働き、相手の心に入ろうと必死になっていたというのもある。

という感じで、性の話をすることが、その場ではそこまで非常識な状況ではなかったわけです。

 

私は以前、別件でその人と合ったときにも「なんか、噛み合わないな、私が勉強不足だな」と反省していた。性的なことに、私はそこまで強い興味関心があるわけでもないし、アブノーマルなセックスのプレイにも興味があるわけでもない。(対してその方は性のエキスパートのような人)

だが、考えてみれば、その両方がその方にとっては、得意分野であり、牙城そのものだ。そのことにまるで無自覚で、丸腰の私が四方を囲まれていたようなものなのだから、それに気が付かずにいた(たぶん今日まで)。

そして、私は、自分が不快だということに対して若干感受性が低いように思う。必死に性的な話題について行こうとするが、その度に「お前はそんな程度で…」という扱いを受けるのも不快だったのだ。気がついていなかったが。

 

でも、それよりも不快だったのは、彼が私を「女」として見ていることだった。それはその時も漠然と感じていた。
上手く言えないのだが、「女の1人」としてみているのがよくわかった。「セックスできる女」としてまったく見ていないのだが、「男のような格好をしているけど、どうせ君は女だもんね」という目で見ているのをずっと感じていた。

それはいつも、ずっと感じていたのだ。女性を認めているようで、全然女性個体を見ていない。女性を総体でしか見ていない。それが漠然と伝わってくるのだ。だからこそ、非常に警戒はしていたが、それが不快だったということは明確にはわからなかった。

 

と、書いていてわかった。だから、不愉快だったんだ。彼は私を一ミリだって認めていない。女という総体のいち細胞くらいにしか思っていない「こういう男になりたい女っているよね」と、絶対に、男の領域に私をいれようとしないのだ。

 

ただ、私の心が閉じた瞬間があった。その飲みの場は、女性が私含め3人、男が2人。元々お会いしたかった1人の男性以外初対面だ。私は必死に皆さんが気分がいいように話をして、がんばって同じ土壌で話をしようとしていた。来てすぐだが、その場にいた女性3人で盛り上がったものだが、それをみて、その方は、もうひとりの男性に

「ね、女ってすごいでしょ、初対面でこんなに盛り上がれるんだよ」

と、楽しげに話しかけていた。

ああ、やっぱりそうだったんだね。心の中で、私の芯が暗い暗い水の底に沈んでいくのがわかった。あなたはやっぱり、私をなんにも認めていなかったんだね。

外見的には、私は男装をしているようなものだから、その方は、私を尊重するようなことを言ってくださるけど、女性としか見ていないんだよね。もちろん、明確に私は自分が男性だとも女性だとも言わなかったから、仕方がないのかもしれないけど。別に、明確に男性だと主張するのは、私はできないだけで、『女』として扱われるいわれはやっぱりないと思う。

 

その時は、色々と様々な悲しいことを突きつけられて、全然整理ができなかったんだけど、たぶん、あの時、取材者としても、人間としても、男としても、色々とつきつけられて、けっこうズタボロにされたような気が、今している。

たぶんむりしていきてるんだろーーーなー

ふと思ったのだが、私はけっこう無理して生きているかもしれない。どの辺が無理しているかというと、女のふりをしている、という時点でけっこうな無理なんじゃないかという気がしてきた。

私はなんとなく一つのところで、自分の気持ちを吐き出せなくて色んなところで文章(ブログ)を書いているのだが、どっかのサイトで吐き出したことに自分の性自認がどうしても女性であることを受け入れられない的なものを書いた。

それを見返してみて、今、私が女のふりをして、「女子」を名乗って「妻」を名乗って、「嫁」を名乗っていることって、実は自分が思っている以上に辛い作業なんじゃないだろうか?と感じたのだ。

『「女」として生きなければならない』その圧が自分を自分を縛っている。もちろん、女として生きたいという気持ちがどこかにあるのかもしれないが、それ以上に女として見られることにどうしても耐えられないと思っている。

子供の頃よりも、そうやって見られることにおびえている。ような気がする。子供の頃は体型も太っていたし、今ほどしゃれおつでもなかったから、ちいさいでぶっちょの不細工少年として見られることもままあった。だが、今は、パット見「男?女?どっちだ?」という怪訝な顔で見られることはあるのだが、基本的には女に見えていると思う(カバンとかカジュアルな女性向けのものが多いし)。あと、名前が女だし、声が女だ。男ということにもしていない。

だが、私はそろそろ、本気で、男に見える努力をした方がいいかもしれないな。心が壊れてしまうかもしれない。

元気にやってます

前に書いた日記が、なんか嵐の中すぎて、ちょっとこの人大丈夫かな、というテイストになっていたので、大丈夫。

元気にやってます。

筋トレばっかやってます。でもね、全然身体が強くない無いよね。ふとっちょのまんまです。ええ。

体重は落ちるだけじゃだめ、引き締めないと!だけど30年怠けに怠けたこの身体は早々簡単に、鍛えられません。身体の芯に筋肉がない。

 

今、具体的な仕事の愚痴しか思いつかないので、書くことがありません。

企画書がね、空中分解しているんですよ。わーわーわー。もうまとまる気がしなくなってきた。

どうしたらまともに生きられるのだろうか

生きていることに常に罪悪感がつきまとう。

朝起きられなくてごめんなさい

家事ができなくてごめんなさい

まともに稼げなくてごめんなさい

大きく言えばこんな感じだけど、本当はいろんなこと、一挙手一投足が申し訳ない。私が物音を立てることも、部屋から出ることも、冷蔵庫をあけることも。

会社にいけば行くで、そこで、メンバーとして正しい態度を取れない自分が申し訳ない。まともに稼げていない自分がいたたまれない。

生きていることが申し訳ない。クソの役にも立たなくて木偶の坊で申し訳ない。

 

働きたくはない。だけど、働かないと居場所もない。

 

だけど、だからいって働くこともできない。金を稼ぐことが怖くてたまらない。
仕事は好きだけど、手を抜くことができなくて、もう1度働いたら、半年くらいはもう働きたくない。だけど、働かないと罪悪感で死にそうになる。

 

息苦しい。どうしたら生きていいと思えるのだろうか?苦しい。

なんで生きていなきゃいけないんだろうか。

誰かに生きていていいと認めて欲しい。

いや、認められなくても、本当は生きていていいはずなのに、どうして、ただ生きているだけの自分をこんなに許せないのだろうか。

許して欲しい、生きているだけでいいと言って欲しい。

善人ではいられない

フリーランス、営業、社長、それはたぶん、善人ではなれない。優しいふりをしていてはなれないと思った。

私は、善人であろうとするから辛いのだろうなと思った。

自分の利益を主張しないといけない。自分の取り分を、主張しないといけない。相手のいいなりになっていたら、自分の仕事が無限に増えていく。

仕事のギャラを減らす覚悟で、自分ができることを主張していかなくてはならない。

メンタルが弱い私にそんなことができるだろうか。

「私の値段ってこんなに安んですか?」

「あなたのマネジメントに問題があるから、事故が発生したのではないか?」

悪いことではない、安請け合いすると自分の首をしめる。どんな態度でも、自分自身を自分で守らなくてはならない。100%自分に非があることなんて本当はそんなにない。相手にも日があることを勘案した上で戦わないといけない。私がすべて悪いです、なんて態度とっていたら、フリーランスではやっていけないんだ。

自分に甘くならなくてはならない。多少の万能感は必要だ。自分の能力なんてこの価格に見合わない、なんておもっちゃいけない。

自分を善人にしたいと思っていたら、私はだめだ。バカにされても、陰口を叩かれても、それでも自分は間違っていない、と、もっと戦えないと、私は自分の労働力を叩き売って、安請け合いして、私生活の時間を削る以外に働くすべがなくなってしまう。

強烈な男尊女卑を浴びた

取材相手になるか、グレーなラインの女性のリサーチのため、イベントに参加した。

そのイベントは、10人にも満たない小規模のもので、その女性の生い立ちを聞いていくというもの。貧困家庭、ネグレクト、薬物依存、レイプ、出産、繰り返す結婚離婚、水商売…その女性は典型的な貧困家庭に育ち、多くの中流家庭からしたら「壮絶な」生涯だが、貧困層からすれば決して飛び抜けて不幸ではなく、残念ながら「よくある」壮絶な家庭環境で育った女性だった。

そこに集まった方は、主催者の顔見知り、その女性を知る人が多く、アットホーム、距離の近い、座談会のようなイベントだった。

 

正直、私は、そこで、これ、どないしたらええのやろうという気持ちになってしまった。

ずっと整理がつかなかったが、その空間が女性の生涯を物味遊山で見てやろうという空気にしか感じられなかったからのように思う。それは、主催者が「その女性を知ってほしい」以上のコンセプトをもっていないせいかもしれない。*1

私も、「この女性、取材できるのか?彼女はどう活かせるのか?」を考えながら話を聞いていた。主軸となる話がなさすぎて、切り取れる場所がない。

それでも、いきなり質問から始まったそのイベントに、色々な質問が集まった。だが、どれも、純粋な好奇心、こういう場でなければ聞けないような下世話な質問ばかりだ。いうてしまえば、場末のバーで、安い酒を飲みながら、一見さんの客がママに昔の男をぐちぐち聞き出すような、そんな雰囲気だった。

この誠実さを感じられない、品の無い好奇心に、私はひどく居心地が悪かった。この女性は切り口によっては面白い、だが、彼女の人となりに私はどれだけ寄り添えるのか?ぐるぐる頭の中を回ってしまった。

あれを思い返すと、たぶん、変な言い方だが、まるで集団セクハラ、レイプでもしているような気持ち悪さだったのと思う。その時はわからなかったが。

あるいはストリップといってもよかった。集団で、人の柔らかいところを聞き出すということだ。彼女は、気丈な女性で、そんな話はいろんな会場でいくらでも講演している、という感じで意にも介していなかった。だが、私は、そうとはとても思えなかった。

聞き手の心さええぐられるような話を、安易に質問してはいけないし、安易に好奇心で聞いてはいけないと思う。答えてくれるから、聞いてほしいから、じゃだめだ。聞く方にも確実に覚悟がいる。

インタビューは一方通行のコミュニケーションではない。聞き手の人間性や感受性は話者によって常に試されている。その感受性いかんで、話者は喋る内容を取捨選択していくものだ。

だが、その場には、その緊張感が一切なかったのだ。自分たちは、試されていないという安心感か、双方向性の欠落を感じた。質問が無責任なのだ。女性はそんな粗野な眼差しに慣れているのか、質問にたいし、しっかりと答えていた。

 

それでも、女性の朗らかな人となりのおかげか、最後の方には、楽しく笑えるようにもなった。だが、最後に、何故来たのか?という参加者の挨拶で、私の心は完全に凍ってしまった。

「多角的にモノを見たくてきた」という主旨の話の中に「レイプや、アイドルの殺人未遂で、被害者の自己責任を問うものが一つもなかった、それは見方として一方向過ぎないかと思っている、女の方が、お客をその気にさせたり、一人でのこのこ男がいる場にいく方が悪かったのではないか、そんな視点もあってもいいはずだ」と、いう人がいた。

あまりの無神経さに、体が震えた。目の前に登壇している女性は、レイプされた経験がある女性なのに、なぜそんなことがのうのうといえるのか?思っていたとしても(思うことは罪ではなく、疑問をぶつけることはいいことだ)なぜ言葉を選び、もっとその場にいる女性全員への配慮をすることができないのか?

そして、その理屈で言えば、今ここで、私がレイプされたとしても、きっと社会の人はそういう目でみるんだろうなーと思った。

そのイベントでは、強烈な性描写も多く、参加者の7割は男性。夜、会場には寝泊まりもできる場所、こんな場にノコノコ一人で女がやってきているのだ、何かあれば私が非難されるのだろう、取材とかいっても、無防備に女が男がいるのに、性のことが語られる危険な場所に乗り出していくから…。

そして、それは、男性が、「女が乗っている満員電車なんて痴漢冤罪にあっても文句が言えない環境になぜわざわざ乗ったのか?両手を上げていなかったのか?自己責任ではないか」と言われているのと同じだとなぜわからないのか?

 

最後まで、ずっともやもやした。家に帰っても、あの居心地の悪さはなんともいえなかった。

今にして思えば。、私は、あの場で本当に気が抜けなかったのだと思う。「女」というだけで、下手な発言や所作は「スキ」と捉えられ、いつ軽んじていい女に転落するかわからない緊張感があった。 男性たちの無意識の「こんな卑猥な会にノコノコやってくるバカな女」という眼差しを常に感じていたのだろう。

 

だが、それこそが貧困層にいる女性たちが置かれている環境なのだろう。
「この女は軽んじてもいい女」と扱われいる。むしろ値踏みをされる前からたぶんその環境の中にあれば「軽んじていい女」なのだ。防衛のしようがない。

 

リベラル、中間層以上に属す女性、そして、40歳代以下の女性は、だいぶまだましな環境にいるのだろう。*2

まともな家のお嬢さんだから、正社員で働いている男の奥さんだから、ちゃんと学校を出ているから、正社員としてちゃんと働いているから…そんな理由で、免罪されているのだ、「この女は軽んじてはいけない側の女」と。

私は常に、「軽んじてはいけない側の女だった」。

だからあんなに露骨に「女だから何しても良い」という空気に晒されたのは、もしかしたら、初めてか、だいぶ久しぶりだ。子供の頃は受けていたかもしれない。あのころは気が付かなかっただけかもしれないし、対象ではなかった。

 

いつ、何をされても、全部自分が悪い、油断できない。

この環境下はきついなと思った。だが、その空気感を伝えられるのであれば意味はあるかもしれない。女が置かれているこの屈辱的な空気をうまく伝えられるのではあれば。

 

なんにしても、疲れたな…。

*1:主催者の純粋な想いは美しいと思うが、そこにどうしても無垢な傲慢さをしか感じられなかった。どうしても、オレの女を見てくれ、と言わんばかりのその女性をモノ扱いしているような不快感を私にずっと与えていた

*2:40歳以下といっても、貧困層は別だろうが。わからないが、30代でも、強烈に男尊女卑を隠し持っている人はいる。それでも、表面化させることが恥ずかしいこと、社会的タブーであることは理解しているので、露骨には出さない。上の世代は、女性に対して見下すことがある種の男らしさの誇示と思っているフシがあるため、露骨だ。まあ、でも若い女性にはさほど露骨ではないが

年代ごとに魅力はある

今この瞬間を大切にしなきゃいけないな、とふと思った。

変な話だが、人は徐々に変わる。年令によって顔は変わるし、体型も変わる。

それは、若いほうがいいとかそういうことではなく、その見た目を見る側の人も、年齢によって美醜の判断基準が変わるから、年齢それぞれで人は人を楽しむことができるんだなと気がついた。

女優は年を取ると劣化、なんて言われるが、本当にそうなのだろうか?宮沢りえは、若い頃より圧倒的に美しいと思うし、吉永小百合は衝撃的にかっこいいおばあちゃんだ。

なんて、正直、女性を例にしても私にはわからなかったけど、自分が30歳をすぎて、二十歳前後のひょろっとした男の子に、全然欲情できないことに気がついてきた。

おじさんの分厚いからだが好き。それは太っているとか、だらしない食生活とかじゃなくて、おじさんの、肉の付き方が、ある種の安心感を与えてくれる。ハタチ前後の男の子の体は少女のように儚い。それはそれで魅力的なんだけど、30歳、40歳を超えた男性の、何者に負けないような分厚いからだは、力強さという魅力がある。白髪交じりの顔、長年日光に焼かれたキメの粗い肌も、決して悪いものじゃない。

そう自分自身が30歳を超えたからこそ思えるのだと思う。若い女性にとって、壮年の男性の力強さは恐怖でしかない。だが、同じ時間をいきてきた私も、力強くウエストは太くなり、誰かを守れるように体が変化している。それを、太りやすくなったとつい嘆いてしまうけれども、それはたぶん違うんだと思う。若いまま、華奢さなままでは、たぶん人間はいきていけないんだと思う。子どもの成長を喜ぶように、大人たちも歳を重ねていくことを喜んだほうがいいし、その瞬間にしか出会えない、人の美しさに酔いしれたほうがいいと思う。

20歳だったあの頃の私にはもう会えないように、30代の私は今しか味わえないし、謳歌した方がいいに決まっている。若作りなんてしなくても、その年その年の美しさと、その年代にならないと備わらない感受性がある。

女性の私がそう思うのだから、男性だって、同世代の女性が好きに決まっている。若い子が好きなんて幻想だと思う。

…いや、若い子も好きなんだけど、同時に同世代の男性も好き。許容量が広がっている。

ということで、今この瞬間を、大切にしようと思う。